☆ マルクスとヘーゲル ☆

井出 薫

 最近ヘーゲルの本をちょくちょく眺める。するとつくづく感じるのが、マルクスとヘーゲルの近さだ。アルチュセールは、マルクスとヘーゲルの違いを強調し、マルクスは「ドイツ・イデオロギー」(1846)を境に、それまでのヘーゲル的思弁哲学と決別し科学的認識方法を確立したと捉え(「認識論的切断」)、その成果が「資本論」(1867)として結実したと論じた。だが、そのような見方は、いささか無理がある。マルクスの資本論に先行する「経済学批判」(1859)以降の論理を見ていっても、マルクスは「資本論」を執筆している時期においてすら、常にヘーゲルを意識しそれを援用している。その観念論を批判しながらも、マルクスにとってヘーゲルは生涯の師だったと言えよう。

 ヘーゲルの壮大な哲学体系は、論理学、自然哲学、精神哲学の3本の柱からなり、「エンチクロペディー」(1817)に三部作として纏められている。論理学、自然哲学、精神哲学という理論体系上の順序は、世界そのものの発展過程(理念、自然、精神)と合致しているとされる。これらの著作には、ヘーゲルの論理の中核をなす、定立・反定立・総合、又は、即自・対自・即且対自という弁証法が通底している。論理学においては、その論理が存在論、本質論、概念論と展開され、精神哲学では主観的精神、客観的精神、絶対精神という順番で展開する。

 マルクスは、ヘーゲルにおける認識論と存在の同一視(思惟と存在の同一性)を批判する。マルクスは「経済学批判」の序説で、科学的認識とは頭の中に作り出された世界であり、その対象となる現実世界はそのまま外に立っていると指摘する。このマルクスの論述を、アルチュセールは、マルクスが思惟と存在の差異を主張していると解釈する。だからマルクスはヘーゲルと決定的に異なるのだと言う。しかし、「経済学批判」の序説の議論は、ドイツ・イデオロギーに先立つ若きマルクスの「経済学・哲学草稿」(1843)においてすでに示されており、認識論的切断の議論は成立しないと思える。経済学・哲学草稿の段階ですでにマルクスは明確にヘーゲルの観念論を批判しており、ヘーゲルとは反対の立場(唯物論)を宣言している。だが、それでも、その探究の方法はヘーゲルに多くを負っている。そして、その方法は、経済学批判、資本論にも特段大きな変更もなく継承される。資本論の序文でマルクスは偉大なるヘーゲルに敬意を表するために、故意にヘーゲル的叙述法を採用したと述べている。しかし、単に叙述法を継承したに留まらない。経済学批判でマルクスは商品の価値の二重性を、交換価値と使用価値の二重性だと語っているが、資本論では、価値と使用価値の二重性だと言い換えられている。資本論では、交換価値とは価値の現象形態に過ぎないとされている。マルクスは資本論で、価値の呪物的な性格を指摘しているとは言え、ヘーゲル的な「本質が現象する」という図式がマルクスに大きな影響を与えていることが示唆される。さらに、資本論では、価値の実体が労働であると明確に規定される(労働価値説)。労働価値説はアダム・スミスやリカードを先駆者とするものであるが、マルクスの労働価値説は、たぶんにヘーゲルの労働論に影響を受けており、その結果、スミスやリカードよりも、より労働の実体性(注)が強調されることになる。そして、価値や労働が実体化されるところにヘーゲルの影を見て取ることができる。先に述べたとおり、マルクスは価値の呪物的性格を指摘し、商品の価値の内容は孤立した実体ではなく、社会的関係であるという(記号学の創始者ソシュールや構造主義者に近い)立場を鮮明にしている。だがその思想は曖昧であることを指摘せざるを得ない。もし価値とは社会的関係であるとするならば、交換価値を価値とわざわざ言い換える必要はなかった。ヘーゲルの影響と言うよりも、マルクスは労働者の革命を支持するために、労働こそ社会を支える根源であることを主張し、交換価値を価値と言い換え、価値に労働を厳密に割り当てたという解釈もできる。しかし、そう解釈すると、労働価値説を科学的真理とするマルクスの立場と合致しない。
(注)マルクスの労働価値説は、生産に必要な社会的平均労働時間を厳密に価値と等置する。スミスでは単に「労働が商品の価値を生み出す」ということに過ぎなかったし、リカードは「労賃を含む費用で商品価値は決まる」ということに過ぎなかった。労働時間を厳密に価値と等置することで、マルクスは労働に至高の使命を付与することになる。これはマルクス固有の思想であり、それはスミスやリカードよりもヘーゲルに負うところが多い(ヘーゲル「法哲学」(1821)など)。

 さらに、マルクスは労働と資本が、労働者と資本家に優先すると考える。労働者は労働の担い手である限りで労働者であり、資本家は資本の担い手である限りで資本家である、とマルクスは語る。これは、孤立した個人ではなく現実的な社会的諸関係を重視する立場であり、ヘーゲル的な観念論と捉えるべきではない。だが、資本家なしには資本はないし、労働者なしに労働はないことを考えると、労働と資本が優先するということの意味は慎重に吟味する必要がある。一つ間違えば、この発想は観念論的な社会実在論に陥る。だが、資本論でこの問題が十分に解明されたとは言い難い。労働者は労働の単なる物神化された(幻想的な)存在ではないし、資本家も単なる資本の物神化された存在ではない。ここでもヘーゲルの思想がマルクスに強い影響を与え、資本/資本家、労働/労働者の関係に関する十全な議論なしに、資本と労働という抽象的存在の優先性が導き出されているように感じられる。

 いずれにしろ、マルクスがヘーゲルそのものだとは言えないにしても、その影響が巨大であることは否定しようがない。マルクスが資本論という歴史に燦然と輝く偉大な著作を残すことができたのはヘーゲルの賜物だろう。だが、同時に、ヘーゲル哲学から脱却しきれなかったところにマルクスの限界がある。経済学的には、価値の実体性が阻害要因となり、ワルラスなどに始まる均衡分析を核とする現代経済学の成果と数学的手法を正当に評価することができず、それらをマルクス経済学に取り入れることが困難になっている。それが中国のようにマルクス主義を理念とする社会ですら、教師も学生もマルクスではなく現代経済学の教科書を読む理由になっている。また、アーレントなどが指摘するように、労働を至高の存在とすることが、却ってスターリン主義時代のソ連のような暴力的な全体主義体制を生み出すことに繋がっている。そして、それらの背景に在るのは、正しくヘーゲルの思想だと言えよう。ただ、ヘーゲルは政治的には中道ないしは保守で、その思想は、階級闘争ではなく思弁的な融和を歴史の終着点として用意している。確かにこの点では、革命家マルクスとは明確に異なる。

 この19世紀の偉大な二人の思想家は、実に深く繋がり、良きにつけ悪しきにつけ20世紀に巨大な影響を与えた。そして、以前よりはずっと相対化されたとは言え、その影響は21世紀にも続いているし、これからも続くだろう。デリダは「現代において、マルクスを読まないことは過失である」とまで言っている。正確にはこれは「マルクスとヘーゲルを読まないことは過失である」ということになろう。デリダのような独断的・独善的な主張は支持できないが、この二人の思想を過去のものとするにはまだまだ時間が足りていない。「読まなければいけない」とは決して思わないが、読む機会があれば、積極的に読んでほしい。そしてここで述べたように、両者が基本的に多くの面で共通していると考えるべきか、アルチュセールのようにはっきりと断絶しているとみるべきか、考えてもらいたい。それは未来を構想するために必ず役立つはずだ。


(H26/1/12記)


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