☆ 原因とは何か ☆

井出 薫

 ある男が会社から帰宅しようとしたとき、家族から携帯に電話が入り、帰り際にスーパーで大根を買ってくるよう頼まれる。男は駅前のスーパーに行き、買い物かごに大根を入れてレジに行こうとする。そのとき、拳銃を所持した強盗がスーパーに侵入、驚いた男は買い物かごを落とす。かごの落下した音に気が付いた強盗は男に向って発砲し男は腕を負傷する。さて、この男が負傷した原因は何だろう。家族が大根を買うよう頼んだことか、買い物かごを落として強盗を刺激したことか、それとも強盗が拳銃を撃ったことか。

 もちろん法的には、負傷の原因は強盗の発砲であり、強盗は男の負傷に対して法的責任を負う。しかし物理学では見方が異なる。さきの3つはいずれも原因とみなしうる。時間の原点を会社から帰宅する直前に設定すれば、家族からの電話を原因とみなすことができる。時間の原点をレジに行く直前とすれば、かごを落としたことを原因と考えることもできる。発砲の直前を時間の原点とすれば、強盗の発砲が原因になる。このように法学と物理学では原因概念に違いが存在する。法学では、法的責任を誰に帰属させるかという観点で原因が決定される。物理学では物理法則の観点から原因と結果が決まる。

 さらに、物理学では、原因と結果は因果律「(例外なく)原因は結果に先行する」という原理で表現される。この原理は一見したところ、空疎に見えるかもしれない。ある事象の原因を探るとき、私たちは必ず過去の事象を調査し、未来に原因を求めることはない。「地震の前に地震雲が現れる」という真偽が定かではない主張があるが、これも地震雲の原因が未来の地震であることを主張している訳ではなく、地震の原因となる事象が、未来の地震を引き起こすと同時に、地震雲を生み出すことを主張しているに過ぎない。だから「この原理は「aはaである」のような恒真命題(常に正しい命題)であるか、カントが述べているような先天的な総合的命題(注1)である。」という考えが生じる。このように考えると、因果律は物理的な意味のない、単なる発見法ということになろう。

 だが、必ずしもそうではない。特殊相対論では、2つの事象の時間順序は慣性系によって異なることがある。詳細は省略するが、空間的な領域(注2)にある2つの事象aとbは、慣性系によってaが時間的に先行することもあれば、bが時間的に先行することもある。つまりaとbの時間順序は確定しない。ここでaとbが物理的な原因・結果の関係にあるとすると因果律が破れる(結果が原因に先行することがある)。それゆえ、空間的な領域にある事象aとbには因果関係はないとされる。もし、ある物理理論が空間的な領域にある事象aとbの間に因果関係を定立するようなものであれば、その理論は偽であると判定される。超光速粒子(タキオンと呼ばれる)は、この観点から一般的にその存在を否定されている。このように、因果律は、相対性原理や量子論の原理と同様に、物理法則に強い拘束条件を与える物理的な原理と考えることができる。それゆえ因果律は単なる発見法ではない。

 このように原因(並びに結果)という概念はかなり複雑で、それがどのような分野でどのように使用されるかで意味が異なってくる。ウィトゲンシュタイン流に言えば、原因という言葉を使用する言語ゲームは複数存在しており、それぞれでその役割は異なるということになる。さらに特殊相対論や(本稿では論じなかったが)量子論などではしばしば原因という概念は常識とは異なる意味合いを持つ。原因という言葉を使う言語ゲームは専門家以外には近づきがたい性質を有することもある。こういった原因という言葉を使う言語ゲームの多様性と複雑性を考慮せずに、原因について論じることで、法的論争や科学的又は哲学的考察においてしばしば混乱が発生する。それを回避するためには、原因という表現がどのような文脈あるいは状況で使用されているかをよく見なくてはいけない。また、普通私たちが使う原因という概念は、物理学的なそれではなく、寧ろ、法学的なそれであることも指摘しておこう。


(注1)「aはaである」のような論理的に真である命題や、「独身者は結婚していない」のような意味的に真である命題を分析的命題と呼ぶ。「総合的命題」とは「分析的命題」の対立概念で、論理規則や意味を超えて、その真偽を探究する必要がある命題を意味する。なお、カントは、先天的な(経験に先行する=経験に依存しない)総合的命題の存在を主張し、先天的な総合的命題を探究することを哲学の主要な任務だとした。一方、論理実証主義者など20世紀の分析哲学系の哲学者は、一般的に、先天的な総合的命題の存在を否定する。どちらが正しいかは結論が出ていない。現時点では、一般的には「どちらが正しいかという問い」自体が不毛だとする見解が有力とされる。

(注2)簡単に言えば、真空中の光速あるいはそれ以下の速度では事象aとbを結ぶことができないような2つの事象を「空間的な領域にある」と言う。一方、真空中の光速未満の速度で結ぶことができる2つの事象を「時間的な領域にある」と言う。さらに、ちょうど真空中の光速で結び付けられる関係にある事象aとbは光円錐領域にあると言われる。因果律により、時間的な領域並びに光円錐領域にある事象だけが因果関係を構成することができる。

(H25/11/10記)


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