☆ 正義と幸福 ☆

井出 薫

 正義と幸福は対立するものではないが、常に両立するものでもない。古代の賢人たちは、正義であることが幸福であると論じたが、現代人はそれほど立派ではない。違法であることを知って違法行為をするとき、ほとんどの場合、ばれない、ばれても大したことはないと知って行っている。法が悪法であり法に反してでも正義を貫くなどという立派な理由で違法行為をすることはまずない。そして法を守ることが一般的に正義であることを認めている。つまり、自分の利得や快楽を正義に優先させている。だから違法行為がばれると「誰でも遣っている」、「この程度のことは大目に見ろ」と開き直る。

 功利主義的な倫理観と反功利主義的な倫理観、たとえばカントの義務倫理やロールズの正義論との対立は、幸福と正義のどちらを重視するかという問題と結び付いている。功利主義は最大多数の最大幸福を謳い、反功利主義は総じて正義を優先させる。功利主義が違法行為を勧める訳ではないが、違法行為が社会に与える害が無視できるくらい小さく、本人に与える快楽が大きいのであれば、功利主義はその行為を容認する。一方、正義を重視する立場をとれば、(社会的影響が小さいがゆえに)罰を与えるのは妥当ではないとしても、そのような行為は原則的に容認されない。

 現代人は総じて暗黙の裡に功利主義的な倫理観を信奉している。明白な罪を犯さない限り各人が自己の利益を追求することに寛容で、自己の利益を追求することが社会の発展に繋がると信じている。だからこそ、逆に言えば、功利主義批判のロールズ「正義論」など正義を前面に出す議論が人々の注目を集める。しかし注目を集めても主流になることはなく人々の意識改革を促すこともない。

 ところが、現代人は自分の幸福を犠牲にしてでも正義を貫く者に最大限の称賛を与える。自分より優れた者を称賛することは当然で、これは別に矛盾したことではない。しかしながら、このことは現代人が正義を幸福よりも重要だと考えていることを示している。だとすると、ここには論理的矛盾がある。

 幸福の条件には正義が含まれる。正義に適わない幸福は真の幸福ではない。だから論理矛盾などない。こういう反論もあろう。しかし他人の命を助けるために自分の命を犠牲にした者は幸福なのだろうか。違う、幸福を顧みずに正義を行使したと言うべきだ。

 正義は知性の問題、幸福は感情の問題、両者を比較することには無理があるという意見も耳にする。しかし、そうなると、知性を優先するか、感情を優先するかという問題が生じる。なぜなら行為を促すのは知性と感情だからだ。そして現代人は感情を優先させていることになる。しかし、これは私たちの直観に反する。

 正義と幸福の関係の解明は、倫理学の根本問題で、どのような社会が望ましいのかを考えるうえで欠かせない。私などに答えを与える能力はないが、これが根源的かつ未解決の問いであることをここに記しておきたい。


(H25/10/20記)


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