井出 薫
人は何をするべきなのか。この問いは、いくつかの段階に分けて考察することができる。 物理学的な次元では、実行可能なことと実行不可能なことが明らかになる。だが、可能なことが全てするべきこと、してもよいことではない。実行可能のことを経済的な視点で眺めると、得することと損することに分かれる。では、実行可能で得をすることがすべきこと、してもよいことになるだろうか。勿論、そうではない。実行可能で得することのうち、さらに選択すべき行為は絞り込まれる。なお、実行可能で損することでも、するべきこと、してもよいことがある。だが本稿では、実行可能で得することに焦点を絞り議論する。 実行可能で得することには、合法なことと違法なことがある。ここで違法でないことを全て合法だと定義しておこう。実行可能で得することで、かつ合法なことがするべきこと、してもよいことになるだろうか。そうだと言う者もいるだろう。しかし多くの者が異論を唱えるに違いない。実行可能で利益があり、合法であるとしても、するべきではないことがある。ある生物種は現時点では絶滅危惧種に指定されていないため捕獲し売買することが許されており、その種を捕獲し販売した者は大きな利益を得ているとしよう。しかし、この種は、急速に生存個体数が減少しており、いずれ絶滅危惧種に指定される可能性が高いとする。このことを知って、なお、人はこの種を捕獲販売することが許されていると言えるだろうか。おそらく、多くの者が、特別な理由がない限り、捕獲を自粛し寧ろ種の保存に力を注ぐべきだと考えるに違いない。実行可能で利益になり、かつ、違法ではなく、しかもそれで利益を得ている者が現実にいるとしても、すべきではないこと、してはならないことは存在する。 こうして、物理学的な次元、経済学的な次元、法的な次元を超えて、事の是非を左右するものが存在することが分かる。それを私たちは普通、道徳とか倫理とか呼ぶ。 (注)日本の社会では、多くの場合、道徳と倫理はほとんど同じ意味で使用される。道徳は「してもよいこと/しなくてもよいこと」を定め、倫理は「すべきこと/すべきでないこと」を定めるという解釈がある。つまり倫理の方が道徳よりもより強い基準を定めるという考え方だ。だが、現実には、倫理も道徳も同じような意味で使用されることが多く、一つの著作の中でも、特段意識されないままに、倫理と道徳という言葉が混在していることも少なくない。それゆえ本稿では、倫理と道徳を分けて考えることはしない。そして、以下では「道徳」という言葉で、倫理と道徳を代表することにする。 だが、道徳の基準はどのようなもので、その妥当性はどのように立証されるものなのだろうか。20世紀を代表する法学者の一人、ケルゼンは、道徳も法も規範であり、前者は内容で、後者は形式でその妥当性が決まるとした。ケルゼンは、道徳の役割、その重要性を否定している訳ではないが、道徳は思想的な立場によって意見が異なり、科学的な認識対象にはならないと主張する。一方、法は規範科学として、その形式・論理から妥当性を科学的に認識することができるとする。 財産権を取り上げてケルゼンの考えを検討してみよう。財産権は、マルクスにとっては搾取の元凶であり廃棄すべきものだが、ロックや現代の自由主義者にとっては犯してはならない権利だとされる。そして両者の優劣を決定する方法はない(とケルゼンは考える)。それゆえ財産権の是非で人々の意見が合致することはない。つまり財産権の是非を決める普遍的な道徳規範は存在しない。一方、法は、一定の手続に従い、財産権を合法とも、違法とも決めることができる。法の次元では、財産権の合法/違法は一定の手続で決定され、その正当性は手続きが妥当かどうかで決定される。だからと言って、財産権そのものの妥当性が法から出てくるわけではなく、その是非は道徳という次元で吟味するしかない。だが道徳で許される(又は許されない)ことは、思想的な立場により異なるから、科学的なものとはなりえない。思想的な立場の違いで許されないものとなったり、許されるものとなったりする。 ケルゼンとともに20世紀を代表する法学者の一人、ハートは、法は意図的に制定したり廃止したりするものだが、道徳は意図的に制定したり廃止したりすることができないものだと指摘する。道徳は伝統の中で社会に根付くものであり、あるとき意図的に制定されるものではない。ケルゼンとハートでは、(共にしばしば法実証主義者と呼ばれるものの)その思想は大きく異なる。しかしそれでも、両者とも、道徳の不確実性、すなわち道徳を科学的な明晰性の中に置きいれることが困難であることを指摘していると言える。 ケルゼンやハートの思想が正しいかどうかは別としても、法が(少なくとも近代立憲主義制では)明快な手続きに基づき定められるがゆえに、普遍性、合理性を有するのに対して、道徳は常に曖昧さが付き纏うことは否定しようがない。「人を殺してはならない」は、思想信条、宗教の違いを超えて成立する道徳律だと言われるが、この最も根源的、原初的と言ってもよい道徳律ですら、正当防衛など例外があり、例外をどこまで許容するかで判断が分かれるし、宗教や思想信条の違いで判断が異なることもある。それゆえ、道徳は法のような明快な科学的な体系の中で表現できるものではない。 しかし、道徳が不確実なものであるにも拘わらず、最初に述べたとおり、人々は法を超えた道徳の存在を想定し、合法でも許されないことがあると考える。また、多くの者は、法の妥当性を道徳(又は哲学)に基づき評価する。たとえ正当な手続きにより多数決で決定された法でも、正しくない法はある。これが現代人の常識だ。つまり、人々の思考と行動を最終的に決定するものは、科学的、合理的、決定論的な体系ではない。「するべきこと/してはならないこと」を定める(曖昧で明確な体系としては表現できない)道徳が存在し、人はそれに従って行為するべきだと考え、事実それに従い行為している。このように道徳に支配されることが、人間の行動を科学的に解明することを困難にしている最大の理由だとも言える。 道徳が人のなすべきこと、そして通常、事実していることを決定する最大の要因であることを知るとき、私たちは道徳を問うことから逃げられないことを思い知る。しかし、科学で問うことができない道徳への問いをどのように解決すればよいのだろう。これが私たちの最大の課題であり、ここにこそ「哲学」と呼ばれる思考の存在価値がある。 了
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