井出 薫
ロックは、私有財産権(以下、「財産権」という。)は人間に欠かせない神聖な権利だと主張した。一方、マルクスは、財産権は搾取を生み出す元であり、私的所有を廃し社会的富の共有制を実現することが正しい道だと説いた。どちらの考えが正しいのだろう。 財産権が搾取に繋がり、貧富の格差を拡大する原因になるという負の側面があることは否めない。しかし財産権が保障されていることで市民は政治権力に抵抗することができる。成田闘争では農民たちは土地所有権を盾に政府に抵抗した。公害が最大の社会問題だった時代、企業や企業を庇護する政府に抗議するために、公害被害者やその支援者たちは株主となり株主総会で公害を垂れ流す企業を批判した。財産権は、権力に抵抗し自由を守るための強力な武器になる。 しかし、財産を持たない者は財産権を盾に政府や社会に抵抗することはできない。しかも財産権が無制約になると搾取や貧富の固定化・拡大に繋がる。財産権は決して自由と正義の切り札ではない。それゆえ財産権には一定の制約が必要となる。日本国憲法第29条でも「財産権は、これを侵してはならない」と財産権を肯定する一方で、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するように法律でこれを定める」、「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる」とあり、財産権が無制約なものではないことが明記されている。財産権はときには自由と権利の擁護者となるが、同時に無制約にそれを認めると社会の不公正を拡大する。憲法第29条はそのことを語っていると言ってよい。 L・マーフィーとT・ネーゲル共著の「税と正義」(名古屋大学出版会、2006年)で、著者は、「課税前の所得に所有権は存在せず、ただ課税後の所得にだけ所有権が存在する」と主張している。たとえば年収1億円の男が、5割の所得税を支払い、手許に5千万円残ったとしよう。通常、彼が所有権を持つ1億円から政府が5千万円を徴税したと解釈される。だが著者は課税前の1億円に対する所有権など存在せず、ただ課税後の5千万円にだけ所有権が存在すると反論する。これは一見したところ非常識な考えに思える。しかし、よくよく考えるとこれは実にまっとうな指摘であることに気が付く。いったい彼はどうして1億円を手にすることができたのだろう。法整備、秩序維持、福祉など政府の活動があってこそ彼は1億円を手にすることができた。無政府状態で、税金はゼロだが、無秩序で、極端な貧富の差がある社会だったらどうだろう。犯罪が横行し、金持ちや大企業は常に襲撃される危険性と隣り合っている。たとえ1億円を得ることができ納税をしないで済んだとしても、彼は代償として自分の生命と財産を守るために莫大な金を警備会社に支払わなくてはならない。それでも、極端に経済が悪化すれば貧者の怒りは頂点に達し彼は海外逃亡するしかない。そもそも無政府状態では契約が守られる保証はなく1億円を手にすることすらできない。これを考えれば、1億円ではなく課税後に残る5千万円だけに彼の所有権が及ぶと考えることは理に適っている。 (注)これは「財産権」という言葉の定義又は言葉の使用の問題に過ぎず、実質的な意味はないと指摘することはできる。だがこのことこそが、財産権が絶対的なものではなく、相対的なものでしかないことを示唆している。 高い所得を得ている者は、しばしば「税金が高すぎる」、「この国は金持ちを大事にしない。これでは経済発展はない。」などと口にする。そして、所得や資産の全てが自分の才能と努力の産物だと思い込んでいる。だがそれは間違っている。政府の活動だけではなく、市民がルールを守り社会秩序を維持していること、たくさんの者が直接的、間接的に彼(女)の事業や活動を支援していること、これらの様々な要因が積み重なって彼(女)は多額の所得を得ている。さらに所得の多寡には運が大きく左右する。米国と日本で野球というスポーツに人気がなくプロ野球が事業として成立していなかったら、イチローやダルビッシュは、普通の労働者として働きながら野球をし、引退後は教育機関で監督やコーチをするしかなかっただろう。当然、その場合、高額の収入を得ることはありえない。どんなに優れたベンチャー企業経営者でも、本人の才能と努力だけでは成功しない。運が良く、周囲の支援があったればこそ成功する。個人の財産が専ら本人の才能と努力の賜物であるが故に、彼(女)に属するという考えは間違っている。そもそも才能を持っているということ自体が本人の努力とは無関係の幸運に過ぎない。 先の著作の著者たちは、「所有権(=財産権)は慣習的なものに過ぎない」とも指摘している。財産権は、普遍的な権利として主張できるような類のものではない。財産権は、幸福追求権、生存権、思想信条の自由、信仰の自由、職業選択の自由、公正な裁判を受ける権利などのように侵すべからざる基本的人権に属するものではない。それは資本主義的市場経済を円滑に機能させるための手段に過ぎず、目的そのものではない。そのことは、財産権がしばしば不幸な人々を更に不幸にすることからも明らかになる。貧しい社会の病人たちは、しばしば特許権が壁となって治療に欠かせない薬が手に入らない。貧しい子どもたちにこそ真っ先に観てもらいたい、読んでもらいたい、聞いてもらいたい素晴らしい芸術が、著作権が邪魔をして子どもたちの手許に届かない。カントは自由の権利はどこまで許されるかと問われて他人の権利を侵害しない範囲までと答えている。財産権は他人の権利を侵害することが少なくなく、他の基本的人権と同列に論じることはできない。それは限定的な(限定されるべき)権利に過ぎない。いや、そもそも「権利」とすら言えない存在なのかもしれない。 マルクスやその後継者たちの社会的富の共有制の主張は行き過ぎていた。完全に社会的に公正な社会が実現し、人々の道徳的水準が現在とは比較にならないほど高くなり、全ての人が公正で、私利私欲がなく、温和で、自分の利益や快楽よりも困っている人を助けることを優先するような社会、そういうユートピアが実現しない限り、強い権限を持つ者たちの恣意的な行動、不公正に対抗するための有力な手段として財産権は有益な存在でありつづける。だが、それはあくまでも手段として在るものに過ぎず、それ自体が目的ではない。それは自由の権利、幸福追求権、生存権などと並ぶ地位にはない。また権力に抵抗するための手段が財産権だけだという訳でもない。現在のところは、財産権は欠かせない手段であるが、永遠にそうだとは限らない。ユートピアがすぐに実現する可能性はない。だが永遠に実現しないとは言えない。たとえユートピアは永遠のユートピアだとしても、それに近づく努力はできる。実際様々な分野で人々の考えと行動は良い方向に変わりつつある。ロックは、財産権を無制限の権利と主張したわけではないが、負の側面と限界を十分に理解していない。ロックもマルクスも半分正しく半分間違っていたと言えよう。やがて、財産権という本来「権利」と言える存在ではないものが不要になる時代が来ると期待したい。それが遠い未来のことだとしても。 了
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