井出 薫
■量子テレポーテーション 東大で量子テレポーテーションに成功したと報じられた。論文は8月15日付のネイチャー誌に掲載されている。テレポーテーションは瞬間移動を意味するが、聊か紛らわしい。量子テレポーテーションと言うと、何らかの物体やエネルギー、あるいは情報が瞬時に伝送できると勘違いする者で出てくる。実際、幾つかの新聞を読んでみると、記者がそう勘違いしているとしか思えないような記事が散見された。だが、実際は、物体やエネルギーは勿論のこと、情報も真空中の光速度以下でしか伝送できない。 量子論では、量子状態を現す波動関数は、観測により別の状態に瞬時に移行する。この現象はしばしば波束の収束と呼ばれる。波動関数は後述するが非局所的で天体規模で広がることが(理論的には)ありえる。それが波動関数の広がりの一部を観測することで、遠く離れた場所の波動関数も別の状態に瞬間的に移行する。このことをテレポーテーションと表現している。つまり遥か彼方の観測が瞬時に、今、この場所の観測結果に影響を与えることになる。しかしながら、観測したことを相手に伝えるためには真空中の光速以下の速度でしか情報を伝送できない通信回線(無線、有線)を使うしかない。だから結局有意な情報は真空中の光速を超えて相手に伝わることはない。 これは特殊相対性理論の帰結で、これまで破られたことがない。2年前、CERNで超光速のニュートリノが発見されたと報道され一大センセーショナルを巻き起こしたが、予想通り観測データの誤りであることが後に判明している。相対論の数学的枠組みでは、タキオンと呼ばれる超光速粒子が存在しうる。しかしタキオンの存在は因果律(結果が原因より先に生じることはないという原理)を破ると考えられており、また、そのことも影響してタキオンの量子化が事実上不可能になる。そのため、以前からタキオンは実在しないと考えられており、またタキオンの存在を示唆する現象もこれまで一つとして見つかっていない。 タキオンが存在しない限り、如何なる物体=エネルギーも、情報も真空中の光速度よりも速く伝送されることはない。また、たとえタキオンが存在しても、その伝搬の時間的方向は過去から未来ではなく(慣性系によっては)未来から過去になることがあり情報の伝送に使うことはできない。 それゆえ、量子テレポーテーションと言っても、情報が光よりも速く伝送される訳ではない。それゆえ量子テレポーテーションは相対論に反しない。しかし、光速度よりも速い訳ではないとしたら、量子テレポーテーションはいったい何の役に立つのかと不思議に思う者もいるだろう。ところが、量子コンピューティングや量子通信、量子暗号などの画期的な新技術の実現には量子テレポーテーションが鍵を握る。だから、瞬間移動ができる訳ではないと言っても、量子テレポーテーションの研究が意義深いものであることに変わりはない。 ■量子論と解釈、非局所性 この現象には不思議なところがある。そのために「テレポーテーション」という科学というよりもSFめいた名称が使用されている。この現象は次のような事例で説明される。素粒子の崩壊から、正反対の方向に2つの光子が飛び出すとする。角運動量保存則から、二つの光子は互いに偏光が逆(右旋光、左旋光)であることが分かっているとしよう。しかし、観測するまで、二つの光子のいずれも右旋光か左旋光かは分からない。二つの光子の量子状態は右旋光と左旋光の重ね合わせ状態で表現され、いずれの偏光かはそれぞれ(たとえば)確率2分の1となる。つまり観測するまでは偏光がどちらの状態かは決まらない。しかし、どちらか一方の光子を観測し、右旋光であることが分かると、その瞬間、反対方向に放出された(遥か彼方の)光子の偏光は左旋光に決まってしまう。つまり片方の光子を観測することが瞬時に(=速度無限大で)もう片方の遠く離れた光子の状態に影響する。その瞬間、2分の1の確率で右旋光と左旋光の可能性があった光子の偏光はどちらか一方に確定する。理論的には、この二つの光子間の距離は無限に離れていても構わない。どんなに遠く離れていても瞬間で影響が相手側に伝わる。だからこそテレポーテーションという呼び名が付いた。だが光の観測をした側の情報(どのような観測をして、どのような結果を得たか、など)を反対側の光子を観測する者に伝えるには真空中の光速度以下の通信回線を使うしかなく、それゆえ情報の伝送速度は光を超えることはない。通信回線を通って光速度以下で伝わる追加の情報を入手できない限り、観測結果から相手側の情報を手に入れることはできない。反対側の光子を観測した者は、対になる光子を遥か彼方で観測したことを知らない限り、測定する前の光子の波動関数がどのようなものだったかを知る術はない。だから量子テレポーテーションは情報伝送には単独では使えない。光速以下で伝送される情報を参照することで初めて量子状態という情報を伝送することができる。量子テレポーテーションそのものは瞬時に起きるとしても、もう一方の低速の情報はひたすら待つしかない。そしてその情報を受信したときには長いときが経過している。とは言え、先に述べたとおり、量子コンピュータや量子通信を実現するうえで、この技術が極めて有用になるため、量子テレポーテーションの研究は世界中で行われている。 ところで、相対論と矛盾しないとは言え、この量子テレポーテーションはやはり不可解で、この現象を量子論の誤りを示すものと考えたアインシュタイン、ポドロスキー、ローゼンの3名の頭文字をとってEPRのパラドックスと呼ぶこともある。しかしベルの研究(ベルの不等式)とそれを検証する実験により、EPRのパラドックス=量子テレポーテーションが事実である(=パラドックスではない)ことが証明されている。 量子テレポーテーションは量子論が非局所的な理論であることを明確に示している。量子論を否定するアインシュタインに対して、ボーアを筆頭とするコペンハーゲン学派の学者たちは、観測装置と切り離して量子的な対象を議論することは無意味だと反論した。量子論の世界では、私たちがどのような観測をするかで物理的な状態が変わってくる。それを反映して量子論も観測装置の状態により与える答えが変わってくる。観測装置と量子的な対象とを切り離すことはできず、たとえ二つの観測装置が天文学的距離ほどに離れていても、状況に変わりはない。量子論は相対論と矛盾する訳ではないが(相対論的場の量子論では完全に整合するが)、それでもその理論の形式は非局所的なものとなる。これがおおよそボーアたちの量子論解釈で、その聊か観念論的な傾向がある説明に批判はあるとは言え、概ね現代の物理学者たちはコペンハーゲン派の解釈を支持している。 このことは自然や自然法則が客観的ではないことを意味するものではない。非局所的な観測装置を含む「観測系+被観測系」の全体を確定すれば、量子論は、そこで起きることについては確率論的だが客観的で正確な答えを弾き出す。量子論は観念論や不可知論に与するものではない。 ■認識論へ ところで、カント哲学を知る者であれば、この量子論の理論構造が、ある意味でカント的な世界に近いと感じるかもしれない。カントは、「物自体の実在は疑う余地はない」としながらも、「物自体」は理論認識不可能と主張した。人間は、人間固有の認識形式を通じて対象を認識する。それを超えて認識しようとすると必ず二律背反に陥るとカントは警告する。カントの批判哲学で展開される個々の主張は正しいとは言えない。しかし、量子論を通じて、カント哲学の骨格は現代物理学においても有効だとみなすことができる。それについて以下で簡単に論じておく。 現時点で人類が生み出した知的遺産において、その厳密性と普遍性、究極的真理性において最高位を占める量子論を分析すると、人間は、観測装置を媒介することなしに世界を認識することはできないことが明らかになる。人間の意識や行動と完全に独立した客観世界が実在することは疑えない(地上に人間が登場する以前から世界が実在したことを否定することは無意味と言わなくてはならない)。しかし、そのありのままの世界(=自然)を直接認識することは人間にはできない。カントによれば、(カントが「判断力批判」で人間の悟性の特徴を明らかにするために導入した架空の存在である)「直観的悟性」なるものを人間が保有しているのであれば、自然そのものを直接的に把握することができる。しかし人間は感性に与えられる時間と空間という形式を有する直観的な印象群を、悟性の支配下で、悟性と感性を繋ぐ(統覚により操作される)構想力を介し、純粋概念を適用することで初めて正しい認識を得る。人間には、この迂遠な認識装置が必要であることから、その認識能力は無制約ではなく、おのずと制約があることが示唆される。カントの主張の多くは現代には通用しないが、現代科学の粋である量子論的世界においては、実験装置を介した認識のみが人間には可能という量子論の教えが、カントの認識論と通底する。カントが主張した「認識不可能な物自体」なるものを現代科学は必要としないが、観測装置を消去してあるがままの自然を捉えることはできないとする量子論の世界観は、現象だけが認識可能と主張するカントと共通する面がある。人間の意識から独立した客観的な自然は確かに実在するが、人間にとって、それがどのようなものかは、観測装置、さらには数学や物理理論などを通じて初めて明らかにされる。ありのままの自然が私たちの前に現れることはない。客観的世界としての自然は、カントの「物自体」と同様に、人間固有の認識形式というフィルタを通して初めて人間に把握される。 だが、量子テレポーテーションを事実とする量子論的世界像はカントの認識論と通底する面を持ちながらカントを超えていく。カントが模範としたニュートン力学では観測装置は二次的な存在に過ぎず、客観的な自然は観測装置とは無関係に人間の前に存在しうるとみなされていた。それは古典電磁気学、相対論でも同じことで、いずれの理論でも、観測装置は基本的に無視して議論することが可能だった。 しかし、観測装置を無視できるという考えは量子論により否定される。観測は物理系を考察するうえで決定的な意味を持つ。それなしには人間の認識は成立しない。だが観測はカントが考えたような先天的な能力に属するものではない。観測装置とは世界認識のための現実的な道具、それ自体が物質的・自然的で自然科学の研究対象となる道具だ。そこから、私たちはカントを超えていく。カントの観念論が唯物論的に転回されると言ってもよい。認識とは、カントが述べるような現象界に対する悟性の規則を介した観念的な認識ではなく、現実的なモデルと実験装置という道具を介することで新しい現実的なモデル・道具を生成するという活動を意味し、生成された新しいモデル・道具が認識の成果とみなされる。認識(活動)と認識の成果は互いに分かち難く結合しているが、理論的考察には両者を分けて考える必要がある。そして、成果であるモデル・道具はその対象そのものとは決して同一化されない。相対論も量子論も熱統計力学も、自然そのものではない。その原理や方程式は自然のどこを探しても書かれてはいない。あくまでも私たち人間の認識の成果として、研究の対象そのものとは解消できない差異を有するモデル・道具として存在する。マルクスは、経済学批判の序説で経済学の方法を論じる際に、この対象と認識活動の成果との解消できない差異を強調した。その点でマルクスは正しい。ただマルクスは、ヘーゲルの強い影響もあり観念論を脱し切れておらず、認識活動を通じて脳に生み出される像のようなものを認識の成果だとする思考法にしばしば傾いている。ただ、それでも認識の対象と認識の成果との間には解消できない差異があると見抜いた点でマルクスは素晴らしい。 認識は決して思惟と存在の同一性を生み出すことはない。だがそのことは不可知論を意味するのではなく、人間がモデル・道具を介して対象を認識することを意味する。そして、認識の成果がまた新しいモデル・道具となり、認識対象に対する新しい認識活動に参画する。つまり認識活動は同一性に解消されることなく、限りなく差異を生み出しながら前進していく運動として存在する。私たちはこのことを理解することが何よりも重要となる。量子テレポーテーションはそれ自体が認識論や哲学に直接関係するものではないが、人間の認識とは何かを考えるうえで極めて興味深い事例となっている。それは量子コンピュータや量子通信だけではなく、私たちの思考方法を改革する潜在力を秘めていると言ってよい。 了
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