井出 薫
「日が暮れて暗くなったので部屋の灯りを点けた。」、「太陽からの入射光が弱くなり、脳に一連の活動が生じ、それが筋肉の動きとなり灯りが点いた。」同じことをこのように二つの違う記述法で表現できる。前者を、目的論的な表現、後者を自然科学的な表現と言うことができよう。 人は、普通、目的論的な表現を使用し、自然科学的な表現を用いることはない。人類が高度で抽象的な言語記号を使用するようになって最初に使ったのは目的論的な表現だった。近代的な自然科学は存在せず、他に適当な記述法はなかったからだ。それが近代に入り、自然科学が発達し自然科学的表現が使用されるようになる。 自然科学的な表現こそ正確な表現であり、目的論的な表現は便宜的なものに過ぎない、自然科学が十分に発展すれば全てが自然科学的な言葉で表現されるようになるという意見がある。しかし、勿論このような極論に同意する者はいない。目的論的な表現は、言語の中心に位置し、人の心を占有している。たとえ物質世界が自然科学的な言葉で完全に表現できたとしても、自然科学的な表現は人々の言語活動において二次的な地位に留まる。 人は、過去を顧み、未来を展望しながら生きている。過去・現在・未来は一つの分離不可能な全体をなし、生の現実を彩っている。過去を振り返り、そこから現代を解釈し未来を展望するとき、未来の原因である過去は未来と融合し、原因(過去又は現在)と結果(現在又は未来)は相互に絡み合う。しかし、結果は原因に還元されないし、原因も結果に還元されない。両者には常に差異がある。そこに私たちは創造の可能性を見る。そして、創造があるからこそ、目的という概念が成立する。たとえ、それが自然科学から見れば現実世界に介入できない無力な存在=幻想だとしても、そういう幻想や空隙を仰ぎ見て呼吸するのが生の現実だ。だからこそ、言語の中核を占める者は目的論的な表現になる。 だが、その一方で、生が身体を基盤とし、身体は正確に自然科学で表現され理解される存在であることも間違いない。人の存在は自然科学的な表現に還元されることはないが、自然科学の発展に伴い自然科学的な表現の重要性は否応なく増していく。 言葉に現れる生の真実と、身体の物質性(自然科学で表現されうるもの)、この二つの矛盾した側面は、決して統一されることはなく、分離されることもない。両者はときには調和し、ときには対立する。自然科学の発展は身体の物質性を強調し、言葉の中で占める自然科学的な表現の拡大をもたらす。それでも言語を自然科学的な表現が制覇することはない。そして、この事実こそが、物質に還元されない生の本質を示す。ただ自然科学とその応用としての近代的な技術の発展が人と社会の可能性を飛躍的に拡大した一方で、生と物質の対立を激化させる危険性を孕むことにも注意が必要になる。 了
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