☆ 正義論はどこまで普遍的でありえるか ☆

井出 薫

 正義論については無数に語られてきたし、今でも語られている。筆者も幾度となく取り上げた。法哲学者ケルゼンは正義の問題を科学的に解明することは不可能だとして純粋法学の対象から外した。しかし、それでも正義に代わる概念として(法を根拠付ける)憲法そのものの正当性を根拠付けるために「根本規範」という仮想的な存在を導入している。法実証主義者と目されるケルゼン自身、根本規範という概念が自然法思想に接近するものであることを認めている。正義と言おうが、憲法の根源的妥当性を支持する根拠としての根本規範と言おうと、現実に存在する憲法と法律を超えて、その正当性を根拠づけ、又は批判する超越的な存在としての正義論が常に問題となっていることは間違いない。

 哲学者や専門家の仰々しい理論を待つまでもなく、実際に定められた法(実定法)を超えた正義の存在をほとんどの人が認めている。法では禁じられていないが、人としてなすべきではないと多くの人々が考える行為がある。逆に、法で命じられていないからと言って、人として遣らなければならないことがあると多くの人は考える。法律的には動物は人格を持たない物でしかない。隣人のペットを殺しても器物破損罪にしかならない。しかし、生命ある者を無闇と殺すことは人としてなすべきことではない。法が明確に禁止していないとしても、理由なくして人間以外の生物の生命を害することは人倫に反する行為だと私たちは感じる。

 日本国憲法は日本国民の基本的人権を保障するもので、在日外国人の権利を保障するものではない。況や他国の人々の権利を保障するものではない。たとえば在日外国人の児童には教育の機会を与えないという法律を作っても違憲ではない。しかし、このような在日外国人の人としての権利を侵害する行為は許されないと多くの者は考える。なぜそう考えるのか。憲法を含む国内の法体系は至高の存在ではなく、それを超えた正義あるいは倫理の根本原則が存在すると私たちが感じているからだ。

 ここで問題となるのが、正義論をどこまで普遍化できるかということだ。国連は人権宣言などを通じて、人権は世界全ての人々に保障されるべきものだと宣言している。しかし人権が蹂躙されている国や地域は多い。そもそも問題は何が人権なのかで意見の一致をみることがないという点にある。欧州各国が死刑制度を廃止して久しい。EU加盟を望むトルコも、加盟条件を満たすために死刑制度を廃止している。その一方で、日本や中国、シンガポールなど、死刑制度を堅持しそれを国民の多数が支持している国もある。欧州各国は死刑制度の非人道性を指摘し、日本などを厳しく批判し、一方批判された側は反発している。ここには、死刑制度の廃止が普遍的な正義なのかどうかに意見の不一致がある。民主制の実現は普遍的な正義とされることが多いが、「民主制とは歴史的な産物に過ぎない」と指摘する者は少なくはない。民主制よりも宗教を堅持することが大事だとする考えは依然として根強い。更にまた、ここでも民主制の中身が問題となる。現行の民主制はブルジョア民主制に過ぎず、搾取を容認しており、真の民主制ではないとマルクス主義者は糾弾する。日本国内だけを見ても、マルクス主義者を別にしても、民主制の在るべき姿については意見が異なることが多い。たとえば1票の格差が問題となっているが、1票の重みが完全に均等化することが民主制に欠かせないと主張する者もいれば、経済的・文化的な格差に配慮して、一定の格差が存在した方が寧ろ好ましいと考える者もいる。また民主制は多数による少数の差別、抑圧という危険を孕み、司法の独立と権限強化など全ての者の人権を擁護するための様々な道具立てが必要になる。民主制が実現すればすべて上手くいくなどということはない。そもそも民主制とは何かが明らかではない。こうしてみていくと、正義論の普遍性は名目的には容認できたとしても、具体的な制度設計(法や国家を始めとする社会制度)においては、明らかに限界がある。「正義論」で正義の2原理を提唱したロールズも、「万民の法」などでは、その正義論をそのまま世界全体に適用することには消極的になっている。ロールズ自身、自らの正義論がアメリカ社会という土台において正当化されるものであることを認めている。この問題では「正義論」のロールズを支持しながら、「万民の法」のロールズを、許しがたい後退だと批判する者がいる。だが正義論の普遍化の困難を考えるとき、ロールズの考え方は比較的穏当で、必ずしも間違っているとは言えない。

 正義という概念そのものを普遍化することは容易だ。だがそれだけでは、「人は何をするべきか?するべきことをするべきだ。」と言っているのに等しく意義は乏しい。いや寧ろそれはすでに現実になっている。誰もが「正義」を振りかざして自らの行為を正当化する。正義概念の普遍化だけでは何もならない。意見の異なる者が、それぞれ自分が信じる正義論の普遍化を望むことは、普遍化の手段として専ら自由で公平な討議のみを用い、全ての人々が熟慮により任意に特定の正義論に同意するのであれば容認できよう。だが現実をみると、自らの正義論を普遍化するために用いられているのは、軍事力、教育を通じた洗脳、経済的な誘惑、メディアを通じた情報操作などであり、熟慮と討議がそこで果たしている役割は驚くほど小さい。正義論の普遍化要求が妥当な試みとなるには、世界はまだ十分に熟していない。また将来熟するときが来るのかすら定かではない。

 こうしてみていくと、正義論の普遍化は期待薄で、期待すべきではないということになる。寧ろ現時点では、正義論の普遍化を求めるのではなく、普遍化が可能な世界を創造することが求められている。今の世界は、一方で使いきれないほどの莫大な富を独占する者がいて、その一方で貧困に苦しみ、「何が正義か」を考える間もなくこの世を去らなくてはならない幼き者が多数存在する。何より最初に、このような不公平な状況を是正しないといけない。公平で貧困に苦しむ者がいない世界が実現したとき初めて、正義論の普遍化の可能性が生じ、同時に普遍化要求が妥当な(専ら討議と熟慮を土台とする)要求となる可能性が生じる。但し、このことは特定の正義論が現実に普遍化できることを意味するものではない。

 それでも幾つかの原理は今でも普遍化可能だと考えてよい。たとえば「全ての者は生きる権利を持ち、人間として尊重される。他人の生命と権利を尊重する限りにおいて、全ての者は、自らの幸福を自由に追求することができる。為政者たちは、その実現に努めなくてはならない。」という原理だ。この簡潔な原理ですら現実には守られていない(日本でも守られていない)。だからこそ、この種の原理は普遍的であること、普遍的であるような世界を作ることを要求し続ける必要がある。そして、この原理が普遍的に実現されるとき初めて、正義論のまともな議論が可能となる。


(H25/5/6記)


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