井出 薫
A、B、Cの3人が小選挙区から出馬。選挙民の40%がAを、31%がBを、29%がCに投票したとする。現行の投票方法では当選はAだ。だが、Aの支持者が、Aが当選しなければ、CをBより良いと考え、BとCの支持者は、BとCが当選しなければ、C、BがAより良いと考えていて、50%以上を獲得した候補者がいなければ上位2名で決選投票をするという投票方法をとったらどうなるだろう。 第1回目の投票では、Aが1位、Bが2位、Cが3位。しかしAの得票率は50%に達していないので、AとBの決選投票になる。すると、Cの支持者はBの方がAより良いと考えているから、逆転でBが当選することになる(Aが40%、Bが60%)。 今度はまた別の方法を考えてみよう。1位には100点、2位には50点、3位には0点を与え、総得点で一番になった者を当選者と決める。さて誰が当選するだろう。計算は簡単でCが当選する。 このように、投票方法で当選者が異なってくる。選挙で勝利した候補者や党は「民意は我にあり」と胸を張るが、それは最初の方法で選挙が行われているからに過ぎない。2番目、3番目の方法で選挙が行われたら、別の結果が出たかもしれない。前回の衆院選では自民党が圧勝したが、疑問を感じる者が多かった。事実、自民の圧勝は民意を反映したとは言い難い。 さて、では、どのような投票方法が最も理に適っているだろうか。経済学者のアローはこの問題を詳細に研究した。しかし、その結果は意外なものだった。「民主的な社会で、民意を最も適切に反映する最善な投票方法は存在しない。つまり、どのような方法を選んでもベストとは言えず何らかの難点がある。」これを人々はしばしばアローの(不可能性)定理と呼ぶ。(注) (注)本稿の議論は、アローの定理の正確な説明にはなっていない。しっかりとアローの定理とその証明を学びたい読者は、アロー自身の手による解説書(「社会的選択と個人的評価(第三版)」ケネス・J・アロー著、勁草書房、2013年)など専門書を参照して頂きたい。 これは民主制の限界を示すものだと考えてもよいかもしれない。最適な選択方法が存在しないのだから、民主制は常に最善の選択はできないことになる。そもそも最善の選択が何かが分からないと言ってもよい。もちろん、これは純粋な数学の問題で、現実とは大きく異なる。人々の考えはめまぐるしく変わる。その一方で、民主制社会において最も重要な討議と熟慮により、十分な情報が提供されることを条件に、ほぼ最適な選択が可能となることも想定される。アローの定理は、民主制の他の体制に対する優位性を否定するものではない。 しかし、そうは言っても、次のことは確実に言える。「誰もが納得する最善の投票方法を設計することはできない。」と。アローの定理を過大評価することは、(現代経済学にありがちな)空疎な数学至上主義に陥る危険性がある。だが、それでも、この定理の意味するところは重く、決して無視できない。それは理論的と言うよりも、実践的にそうなのだ。選挙で勝利した者、その者を支持した者は、その結果を過大に評価し天下を取った気になる。しかし、民主制においては、その勝利は偶然的、暫定的なものでしかない。少数派が本当は多数派だったのかもしれないし、明日は多数派になるかもしれない。そのことを勝利者とその支持者はよく覚えておく必要がある。また、このように少数派が常に多数派に反転することがありえるところに、民主制の優位が示されているとも言える。そのことを示唆するところにアローの定理の価値がある。 了
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