☆ 労働の二重性 ☆

井出 薫

 マルクスは、労働には具体的有用労働と抽象的人間労働の二重性があり、前者が商品の使用価値を、後者が(交換価値として現象する)商品価値を生み出すと論じている。マルクスにとって、この仮説は、商品の価値とは社会的必要労働時間であるとする(マルクスの)労働価値説の前提であり、帰結でもある。労働価値説が正しいとすれば、マルクスの考えは正しい。

 しかし、人間の労働は常に具体的有用労働であるしかなく、それが商品の使用価値と価値の両方を生み出すと考えるべきだろう。抽象的人間労働は集合を記述する記号、唯名論者が語る「名前」に該当するものに過ぎず、実体はない。一方、商品価値は市場での交換において交換価値として現実化するものであり、単なる名前ではない。

 マルクスの時代は、生産過程が単純で、生産物の種類も限られていた。そのために、人間の労働力はどんな用途にも使用できるように見えた。そこでマルクスは、労働には具体的有用労働だけではなく、抽象的人間労働という側面が備わっていると考えた。マルクスは労働が単なる個体の身体能力の発揮に過ぎないものではなく、社会的に構成されるものであることを正しく見抜いている。この点でマルクスは同時代の経済学者や哲学者よりも確実に上を行っている。しかしそれでも、抽象的人間労働という観念は単なる名前に過ぎないことを見落としている。具体的な有用労働は個別的なものだから、普遍的な(交換価値として現象する)価値の基盤とはなりえないとマルクスは考えた。だが商品価値が個々の生産物に内在するものではなく、社会関係の結晶物であることを思い起こせば、価値の土台に普遍的なものの存在を想定する必然性はないことに気が付く。価値があるから交換が成立するのではなく、寧ろ、交換が成立している事実から、そこに価値というものが想定される。しかし、それが貨幣を媒介とすることで一般化され価値という普遍性を帯びることになる。

 抽象的人間労働という概念の実体化は、資本主義的市場において、労働力が、(均質性を本質とする)貨幣を媒介として労働力以外の一般商品と交換されているという現実から派生した思想に過ぎない。労働は本質的に具体的有用労働であり、労働力は常に具体的有用労働としてその潜在能力を現実化する。建築現場の労働者の労働力は、コンピュータの営業担当の労働者のそれとは違う。確かに、建築現場の労働者は訓練によりコンピュータの営業担当になることはできるかもしれない。しかし常にそうではなく、またできたとしても、どちらの分野でより能力を発揮できるかは個人によって異なる。労働が孤立した個人の身体能力の発揮ではなく、社会的なものだとしても、この差異は決して解消されない。人間1万人の集まりは、無差別な1万体の集まりではなく、それぞれ異なる1万の集合なのだ。それゆえ、その配置の違いは社会の諸関係を変化させる。たとえ十分な訓練期間を設けても、一人の建築現場の労働者と、一人のコンピュータの営業担当者とを配置転換することは違う社会関係を作り出す。

 近年、労働市場の流動化の必要性が盛んに唱えられている。しかし、人間は貨幣のように空疎な記号でそれゆえ無限に交換可能な存在ではない。労働市場の流動化、斜陽産業から発展が見込まれる新規分野への労働力の移転を拒む者は、労働者の抵抗や、労働組合の硬直した態度などではない。それは労働が本質的に具体的有用労働であり、抽象的人間労働ではないということに基づいている。それゆえ解雇を容易にするなどという手段で、労働市場の流動性を高めることはできないし、するべきでもない。そのような政策は貧しい労働者を苦しめ、社会を荒廃させる。

 長期的には、労働力の配置転換は社会の発展に不可欠と言える。しかし、それは若年層の教育などを通じて時間を掛けて遂行することが望ましい。すでに一つの仕事に習熟した者はその分野でその労働力を使うことが本人にとっても社会にとっても好ましい。カントは、人間は手段ではなく目的であると論じた。しかしマルクスは、資本主義の下では、労働者は労働力を(商品として)市場に提供するしか生きる術がなく、そこでは人間は手段としてしか機能しないことを示した。カントの理想は資本主義体制においては(精々部分的にしか)実現できない。しかし、このことを正しく認識するには、抽象的人間労働は便宜的な名前に過ぎないことを理解しないといけない。(実現できるとすれば)未来の無階級社会では、人間の労働は、純粋に、尊厳ある生を営む個々の者の具体的有用労働として現れることになろう。そこでは抽象的人間労働という概念は廃棄される。それはもはや搾取される労働ではないからだ。労働力の配置転換は、新しい若い世代が新しい需要と技術に呼応して、新しい技能を身に付けることを通じて時間を掛けて実現される。ただ、そのためには(名目的な)抽象的人間労働という概念があたかも実体を有するものであるかのように思い込ませる現代資本主義社会の在りかたを抜本的に改革する必要がある。


(H25/3/9記)


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