☆ 言葉、意味、主体 ☆

井出 薫

 言葉の意味と言えば、こういう印象を持つ人が多い。たとえば「猫が机の上にいる」という状況、あるいは、それが心に反映した像がある。言葉はこの状況又は心像に記号列を当て嵌めたものだという印象だ。ここで記号列としての言葉は、それが表現する状況や心像とは別の者で、何らかのメカニズムで両者が結び付くということになる。

 ウィトゲンシュタインはこのような印象は間違いだと指摘する。「「アブラカタブラ」と唱えながら「今日は良い天気だ」ということを意味してみよ。」ウィトゲンシュタインは読者に問いかける。できない。「アブラカタブラ」と声を出すことで、今日は良い天気だということを意味することはできない。無理にしようとすると、「アブラカタブラ」と口にしながら、頭の中で「今日は良い天気だ」と黙読するか、青空に太陽が浮かぶ姿を思い浮かべるしかない。しかし、そのような試みは左手に持ったパンをかじりながら、右手でパソコンのキーを操作するようなもので、右手の行為と左手の行為が独立しているのと同じで、「アブラカタブラ」という発言と、良い天気だという心像とは何ら関係はない。

 「意味」と表現される何かが先行し、そこに言葉という記号を割り付けるという考えは間違っている。言葉の記号表現とその意味とは同時に存在しており、記号としての言葉と意味が互いに独立なものとして存在し、それが結合する訳ではない。

 デリダも、フッサールの現象学を批判した「声と現象」で同じようなことを指摘している。デリダもまたウィトゲンシュタイン同様、言葉という記号と意味の独立性を否定する。ハイデガーは存在者に先立ち予め存在了解が把持されていると主張する。存在者と出会うには存在了解が先行しないとならない。ハイデガーはそう指摘する。これは一見したところ、存在者と存在を二分化し、存在者に存在性格を割り当てる試みであるかのようにみえる。しかし、そうではない。存在了解は常に存在者との出会いの中で明るみに出る。存在者として把握される者を予期することなく、それとは独立した存在、あるいは存在了解が先行的に存在することはない。

 ウィトゲンシュタイン、デリダ、ハイデガー、20世紀を代表する三人の哲学者は、共通して、「世界(=存在者の全体)が人間に先立ち独立して実在し、人間は言葉をその客観的な世界に割り振り、そして認識を得る。」という観念を否定する。世界は言葉で表現された時初めてその姿を私たちの目の前に現す。ハイデガーはその時初めて世界は開示され、真理が示されると考える。だが、その開示という作用は、言葉や存在への配慮なしにはありえない。世界や存在者が予め待っているのではない。言葉が到来したとき初めて世界は現れる。

 彼らの思想は「主体」を解体する。あるいは、少なくともその存在の根拠を掘り崩す。なぜなら、予め存在者が存在し、それに言葉を割り付けることで人は正しい認識を得るという図式が成立するとき、そしてそのときだけ、人間はこの二つの独立した者を操作する認識主体として根拠付けられるからだ。もし、この考えが間違いであれば(事実、ここで示したとおり間違いなのだが)、言葉に先立つ客体(存在者)とそれに対峙する主体という二元論は根拠を失う。そのときには、自律した主体としての人間は存在しない。ただ、言葉や記号、身体に消費される財など様々な媒介者が流通する空間が存在するだけになる。

 そこでは主体とはフーコーが主張する通り、その場において二次的に構成されるものに過ぎず、先行者でも、超越者でもない。主体は個人の影響範囲を超えた社会という場で二次的に構成されるものでしかないことが明らかになる。マルクスが資本家や労働者よりも資本や労働という社会関係に着目した理由がはっきりする。労働者は労働の担い手である限りで労働者となり、資本家は資本の担い手である限りで資本家となる。労働や資本という社会関係と独立して資本家や労働者が存在する訳ではない。

 このように、自律した認識主体は存在しない。そのことが、言葉という最も身近な存在を考察することで明らかになる。尤も、人間という存在をより現実に即して考察すれば、認識主体ではなく、他者に対して責任を負う主体として存在することが明らかになる。世界を睥睨する傲慢な認識主体は解体されたが、他者に配慮する責務を担う主体としての人は紛れもなく存在する。認識主体を解体することで寧ろそのことが明らかになる。


(H25/3/2記)


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