井出 薫
カントの代表作が「純粋理性批判」、ヘーゲルの代表作が「精神現象学」、専門家はこの評価に異論はないだろう。他に代表作が挙げられるとしても、カントだったら「判断力批判」、ヘーゲルならば「大論理学」、難渋な純粋哲学的大作で大差はない。 しかし、「純粋理性批判」や「精神現象学」が本物の哲学だとしたら(事実そうなのだが)、一般読者は間違いなく哲学を敬遠することになる。哲学は変わり者が愛好する奇異な学問、哲学は深遠なのかもしれないが、訳の分からない読み物の典型ということになってしまう。 ところで、「純粋理性批判」や「精神現象学」が本物の哲学とはどういう意味だろう。そして、この評価は専門家から支持されているとは言え本当に正しいのだろうか。 「学」とは抽象的な次元で対象を論じる。このことは、数学、物理学、経済学、社会学など全ての学問に共通する。それにより、学は普遍性を有することになる。目の前に在る特殊な個物を論じることは学の本来の使命ではない。それは学の応用としてのみ存在する。具体的な事例を引き合いに出すことはあるが、あくまでも抽象的な原理を説明するための道具でしかなく、本質ではない。 哲学も学である以上、抽象的な次元で対象を探究する。その意味で、哲学の代表作が「純粋理性批判」や「精神現象学」であることは間違いではない。だが、本当にそれが哲学の真の姿なのだろうか。確かにかつて他の学と同じように抽象的な学として哲学は存在した。それも他の学の上に立ち君臨する者として存在した。しかし、今ではそういう哲学はほとんど意味がないと考えられるようになっている。寧ろ、哲学は特殊具体的な課題をその場で考察する学だと考えるべきではないだろうか。その意味で、哲学は学と言うよりも実践そのものと言ってよい。そして、正にこの姿こそ、西洋哲学の原点とも言うべきソクラテスが目指したものだった。ソクラテスに回帰すれば、哲学は抽象へと解消されることのない個別具体的な実践として捉えることができる。 このことに気が付くと、カントでは「純粋理性批判」ではなく寧ろ「啓蒙とは何か」、「永遠平和のために」、ヘーゲルでは「精神現象学」ではなく「法の哲学」、「歴史哲学講義」などを代表作として取り上げることができる。 そうなれば、一般読者の哲学へのアレルギーは大幅に和らぐ。勿論、「「本物の哲学」とは何か」などという問いに答えはない。しかし、「永遠平和のために」なら誰でも気楽に短時間で読み通すことができる。難解で知られるヘーゲルでも「歴史哲学講義」ならば根気よく読めば読み通すことができる。そして、どちらの書も得るところは多い。 いずれにしろ、読んでも理解できない「純粋理性批判」や「精神現象学」ではなく、理解できる「永遠平和のために」や「歴史哲学講義」などを哲学の代表作として読者に勧めることが望ましい。そうすれば、哲学は現代社会においても大いに役立つものとなる。 了
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