井出 薫
「情報」という概念は2種類ある。日常的な言葉の使用とそれに近い社会科学的な「情報」と数理科学的な「情報」だ。前者は「意味」や「価値」の担い手で、「意味」や「価値」そのものを意味することもある。一方、後者は、それ自体は意味を持たない記号列の集合体で、通常「0」と「1」で表現される。 情報理論では「情報」とは情報量を意味する。たとえば0と1からなる2桁の数字がカードの裏側に書いてあるとする。数字は00、01、10、11の4つの可能性がある。ここで「左の数字は0である」という情報が与えられたとしよう。すると数字は00か01のいずれかになる。ここで数字の可能性(不確実さ)は4から2へと2分の1に減っている。情報理論では、不確実性を半分にするものを「1ビットの情報」と定義する。さらにここで「右の数字は1である」という情報が与えられたとすると、数字は01であることが確定する。ここでも不確実性が2分の1になっているから、この情報は1ビットと評価される。加算して2ビットの情報により数字01が確定したから、0と1からなる2桁の数字は2ビットの情報と評価される(注)。これが情報理論における「情報」で、普段の生活で私たちが使う「情報」とはかなり懸け離れている。情報理論の開祖の一人、シャノンは、専ら、雑音の影響をゼロにはできない通信路で、どうすれば信号の誤りを確実に検出し、正しい信号を復元することができるか、その検出・訂正限界はどこかを研究課題とした。シャノンの射程には、日常的・社会科学的な観点での「意味」や「価値」は存在しない。 (注)情報量が加算的な量であることの証明は省く。情報量は熱力学の中心的な概念であるエントロピーと結びつけて論じられることがあるが、エントロピーも加算的な量として定義される。 数理科学でも、人工知能や自然言語の研究などでは、「意味」という概念を避けて通れなくなる。日本語を英語に機械翻訳させるには、人が理解する「言葉の意味」に着目しなくてはならない。しかし、数理科学では、意味をそのまま扱う術はなく、意味論的な問題を、(数理論理学的な「計算」と等価である)統語論に還元して議論するしか方法はない。「机」という言葉の意味は、「机」という記号の(文章という)記号列における位置と、他の記号(「椅子」とか「人」)との関係を核として計算により決まる。 最初に「情報」には2種類あると論じた。問題は、この2分類が便宜的な区別に過ぎないのか、それとも実体的なものか、というところにある。この問題は、上で論じた「「意味」は「計算」に還元されるか?」という問題と緊密な関係を持つ。後者に肯定的な解答が得られれば、情報論の2分類は便宜的なものに過ぎないと結論付けてよい。そこでは「情報」概念は一つになる。それは社会科学的な考察が、自然科学並びに数理科学(数学並びに対象の数学的側面を研究する科学)に基礎づけられることを意味する。勿論、基礎づけられるとしても、社会科学固有の問題が消滅するわけではない。倫理的、規範的な課題(何をなすべきか、など)は自然科学・数理科学には還元しえない。たとえ原理的には還元できる問題でも、プレートの運動を量子論の基礎原理に遡り研究することは技術的に不可能であることから分かるように、社会科学的な次元で研究するしかない。しかし、それでも、原理的には、社会科学は倫理・規範に関する問題を除けば自然科学に帰着することになり、また倫理、規範に関する問題も自然科学的な土台の上で展開するべきだということになる。 しかし、証明はできないが、意味は計算には還元できないと考える。還元できるという考えは、「脳を含めて身体は物質であり、機械と同じ物理法則に厳格に従う。心とか、意識とか、精神とかいうものは、何ら自律した実体ではなく、物質の存在様式あるいは活動形式の一例に過ぎない」という唯物論的な思想にその根拠を求めている。実際、意味の計算への還元可能性を示唆する理論、ソシュールの言語論・記号論、チョムスキーの生成文法とそれに続く様々な現代的な文法理論、ウィーナーのサイバネティクス、ノイマンの自己増殖オートマトン、チューリングマシン、チューリングマシンと言語体系と数学体系の等価性、など20世紀に決定的な影響を与えた理論の背景には、この唯物論的な思想が大きな役割を果たしている。 この唯物論的な思想は現代人の常識とも言えるが、正しさが証明されている訳ではない。また、この思想が正しいとしても、意味が計算に還元されることが証明される訳ではない。唯物論的な思想そのものが正しいかどうかの判断は留保したい。しかし唯物論が正しいとしても、意味は計算には還元できないと考える。ガリレオは「自然という書物は数学という言葉で書かれている」と述べた。現代人、特に科学者は(意識する、しないに関わりなく)この言葉の熱烈な信奉者と言えよう。だが、自然には数学では語りつくせない部分が存在する。しかしそのことゆえに、それが何であるかを語ることはできない。なぜなら言語体系と計算論の体系の等価性から、数学で語ることが出来ないことは言葉で語ることもできないからだ。それゆえ広義の記号で構成される科学は、数学で語りつくせない部分については語ることはできない。勿論、科学だけではなく、哲学も神学も文学もそれについて語ることはできない。 おそらく、この考えには多くの者が反対する。それは身体とは別の霊魂のような存在を意味していると疑う者もいるだろう。それくらい、現代人は、唯物思想と数学の万能性への信仰が強い。だが、少し考えれば、それは信仰に過ぎないこと、この信仰を支える根拠は乏しいことが分かる。勿論根拠が薄いということは間違っていることを意味しない。根拠はなかったが、結局正しかったということはありえる。 だが、そうとは思えない。人は何故苦しむのか、これは洋の東西を問わず古代からの決定的な問題だった。この問いに答えるべく、宗教家、哲学者、芸術家、科学者は様々な理論を、作品をこの世に送り出してきた。だがそれでも問題は解決しておらず、未だにただ目の前に在るという状況に留まっている。苦しいとき、悲しいとき、嬉しいとき、人の脳では何かが起きている。だがここで語ることが出来ることは、「脳神経系でこれこれの事象が発生していたとき、彼(女)が「悲しい」と言っていた」という事実だけだ。つまり脳神経系という物理系と心という二者の時間的相関を指摘することが出来るだけで、両者の因果関係を説明することはできない。このため、科学と技術の目覚ましい発展にも拘わらず、心身二元論は未だに消えていない。唯物論を信奉しながら二元論を支持する者も少なくない。このことは、意味の計算への還元不可能性を証明するものではない(そもそも証明という手法では語ることができないというのが本稿の趣旨だった)。しかし、この不可解な二元論的な状況は、「意味」という優れて社会的で、かつ、心的である何かが、機械的で自然科学的又は数理科学的な「計算」とは異質であり、互いに還元することが出来ないことを示唆している。 それゆえ、日常的又は社会科学的な「情報」概念は、原理的に、数理科学的なそれとは異質であることになる。それにも拘わらず、両者が混同され不毛な議論が生じることが少なくない。たとえ、意味の計算還元不可能性の主張が間違っていたとしても、両者の開きは大きいことを意識して議論しなくてはならない。特に社会科学的な考察では、倫理・規範を論じることが多く、また直接それを主題としなくても常に論者の背景にあることを考えれば、尚更そうなのだ。 了
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