☆ 法と道徳 ☆

井出 薫

 最高法規の憲法、唯一の立法府である国会が制定する法律、法律の範囲内で定められる政省令・条例など様々な法規、日本の法体系はこの3階層からなる。

 憲法は最高法規だが、憲法の正当性はどこに存在するのかという問題がある。この問題を解決するために20世紀を代表する法哲学者ケルゼンは根本規範なる観念を提唱した。しかし根本規範の性質は曖昧で、法実証主義者と称されるケルゼンも「根本規範の概念は、自然法に近い」と認めている。

 自然法則と同等の位置を占める自然法なるものの存在を文字通り信じる者は現代では少ない。キリスト教徒、イスラム教徒、マルクス主義者、自由主義者、民族主義者、唯物論・無神論者など思想信条により最高の道徳律は異なる。それらの優劣、真偽を定めるより上位の理論は、それぞれの思想信条の持ち主が自らの法を至高の存在と考えている限り存在しない。ただ思想信条が異なっても共有できる法は存在しうる。だが現実の世界ではなかなかそうはいかない。民主制、人権、平和などの理念は法として共有できそうだが、民主制を否定する者もいるし、民主制と言っても、ブルショア民主制と共産主義社会の真の民主制は異なるとする考えもある。人権も具体的に何が権利なのか、権利の限界はどこかなどでは意見の相違は大きい。平和が容易に実現しないことは周知の事実だ。

 憲法の正当性(=実定法体系の正当性)は、その社会で支配的な道徳観や成員の多数が正しいと認める不文律を含めた様々な規範に基づいている。たとえば日本国憲法が日本人の道徳観や倫理観に概ね合致し広く支持されていることは疑いようもない。勿論、憲法が制定され、その下で生活しているから自然と憲法を尊重するようになるという面は否めない。道徳や倫理、様々な規範が先に在り、その後に憲法が定められるのではない。その点では法と道徳は鶏と卵の関係にあると言えなくもない。

 それでも、道徳を固定的なものではなく、柔軟で時代と共に変化するものと考える限りは、やはり道徳(倫理、正義、価値などと称されることもある)が法に優先すると考えることができる。日本国憲法は、その制定の過程で米国の意向が強く働いたことは事実だが、それがもし日本社会の道徳観と著しく乖離し、その可変性の範囲外にあったならば、すでに大幅に改変されていたか廃棄されていた。民主、人権、平和の理念は戦前の日本人の道徳観とさほど大きな開きはない。そこには生命の尊重、他者への気遣い、家族や友人、同僚の幸福を願う気持ちなどが横たわっており、制定の経緯はいざ知らず、多くの者が現行憲法を支持するに至った。

 このように、道徳は法の上(あるいは土台)に位置し、それが、ときには法の規定していない社会生活を秩序付け、ときには法を変えていく原動力になる。動物は現行法体系においては人格的権利が認められておらず、単なる「物」として扱われる。それゆえ、隣人が家族のように大切にしている愛犬や愛猫を殺しても、法的には器物破損罪にしかならない。しかし犬や猫を殺すことと、パソコンや携帯電話を壊すことが同等な行為だと考える者はいない。私たちは、正当な理由もなく命ある者を害することに強い嫌悪感を抱く。そういうことを平気で実行する者を私たちは信用しない。莫大な収入と資産を有する者が、経済的に苦境に陥っている家族や友人をその事実を知りながら平然と無視しているのを知ると私たちは憤りを感じる。日本国憲法で(公共の福祉を阻害しない範囲で)財産権が尊重されているとは言え、そして貧しい親族や友人を助けないことが公共の福祉を侵害しないとしても、支援するのが人の道だろうと誰もが感じる。

 そして、こういう私たちの道徳観が法を変え、新しく生み出す。人間は他の生物を食して初めて生きていくことが出来る。健康維持増進のためには植物だけではなく動物を食することが望ましい。生命を重んじるとか言いながら、ゴキブリや蚊、蠅などは平然と殺している。そこに人間の道徳的限界がある。それでも人間以外の生物であっても不必要に害さないこと、害する場合もできるだけ苦痛を与えないこと、こういうことは共通認識としてある。それが、現在では、動物実験や家畜を殺す方法の指針として明文化されている。これは憲法には何の根拠規定もなく、緩やかな指針としてあるだけで法的拘束力を有する訳ではないが、私たちのほとんどが守るべき当然の規範と考え、違反する者は社会的批判を浴びる。累進課税制度は単なる財政的な手段だけではなく社会的公平を維持促進するための富の再分配という側面がある。

 悪法も法なりと言われる。最高法規の憲法が悪法であることもある。しかし何人にも悪法には抵抗する権利があり、その抵抗は遵法精神に反しないとされる。何が悪法で、何が良い法かを決める明確な基準や法則はない。だが、曖昧でそれがゆえにしばしば激しい争いの種にもなるが、当該社会に共有される道徳がその第一の基準となる。それ以外には基準はない。勿論現時点での少数意見が将来の多数意見となる場合がある。それを考えると既存の道徳が法の善悪を判断する最良の物差しではないことは間違いない。しかしながら、将来多数意見になる可能性があると想定されうる見解や振る舞いを含めることで、道徳という巨大なプールが、法体系を支える基盤であると考えることができる。法と道徳に顕著な乖離があるとき、法は廃棄される。但し将来的には道徳の変化により廃棄された法が正しかったと再認識され復活することはある。


(H24/11/10記)


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