☆ 嘘が孕む矛盾 ☆

井出 薫

 iPS細胞を使用した心筋移植の報道は誤報だった。移植を行ったと主張した森口氏は嘘を吐いたと考えられている。しかし、森口氏が嘘を吐いたと私たちはどうやって判断しているのだろうか。

 嘘の条件は少なくとも二つある。まず、当人の信念と異なることを語ること、これが一つ、もう一つは故意であること、この二つだ。しかし、自分が何を信じているかは自分しか知らず、他人には分からない。「日本の現在の首相は小泉純一郎だ」と言ったら嘘を吐いたと思われるが、当人が本当にそう信じていることは十分にあり得る。その場合、嘘を吐いたことにはならない。間違った考えを持っているだけだ。故意かどうかも本人しか分からない。こうしてみると、嘘かどうかの判断はただ本人だけにできることで、外部が判断することはできないことになる。

 しかし、故意かどうかは刑事罰を与えるかどうかの決定的な要件になる。他人を突き倒して大怪我をさせた時、故意であれば刑事罰の可能性が生じる。故意ではなく、偶然又は不可抗力であれば刑事罰が与えられることはない。裁判で被告が真実を証言する保証はない。故意に突き倒したのに、故意ではなく偶然だと証言するかもしれない。その場合、直ちに無罪が宣告される訳ではなく、状況証拠から故意であるかどうかが判断される。

 裁判では被告が何を信じていたかも重要な論点になる。ドアが開けて入ってきた者が強盗だと信じてバットで殴って重傷を負わせたとしても罪には問われない。しかし妻であることを知りながら殴打したら罪に問われる。だが、ここでも、被告が真実を言う保証はない。それゆえ被告が何を認知したかは状況証拠で決まる。

 こうして、「嘘」は、普段私たちが信じている条件とは全く別の基準により判断されることになる。精神的な問題を抱えていない限り、森口氏は嘘を吐いたと誰もが判断する。しかし、明らかに、その判断基準は嘘の条件とは異なる。森口氏が精神的に正常であるにも拘らず、「自分は手術をした」と確信している可能性は否定できない。また、故意ではなく自動的に口から虚偽が語られる可能性もある。その場合は精神的に正常ではないということになるが、外部からは異常な徴候が全く認知されず、嘘を吐いたと判断される可能性も否定できない。

 この矛盾はどこから生じるのか。それは嘘の条件が専ら内的なもの(主観)に依存していることから来る。しかし法廷などでは、証拠とは客観的なものであることが要請される。だから矛盾が生じる。

 それでは、嘘の条件を変えればよいのではないか。そうは行かない。確かに嘘の条件は主観に基づく。しかし、それは全ての者にとって共通の条件となる。誰もが嘘を吐いたとき、周囲が嘘に気が付かなくても、自分が嘘を吐いたことは分かっている。それはここで論じた二つの条件が満たされていることを知っているからだ。裁判では客観的な証拠が要請されるとは言っても、客観的な証拠とされるものが、そもそもこの主観的な条件に基づいている。「この状況で、故意ではなかったなどということはありえない。」、「気が付かないはずがない。」こういう客観的とされる証拠は、証拠を提示する各人の(嘘に関する)主観的な条件から導かれる。

 しかし、それでも嘘の主観的な条件と、客観的な証拠との間には乖離がある。それは、客観的には森口氏が嘘を吐いていることが確実であるにも拘らず、主観的条件においては森口氏が嘘を吐いていない可能性を否定できないことから分かる。

 嘘か否かは、裁判だけではなく、あらゆる社会的状況において重要な意義を持つ。首脳会談で一方の国の首相が他国の首相が嘘を吐いていると判断し交渉決裂、戦争突入ということだってあり得る。嘘の条件とその判断基準の矛盾はそれゆえ決して無視できない重要な意味を持つ。そのことは、文学などの芸術において嘘がしばしば主題となっていること、話の展開において嘘が重要な意味を持つことからも明らかになる。真実を言ったのに嘘だと思われ絶望する者、嘘を言って良心の疾しさに悩む者、こういう場面が如何に文学において多いことか。人々は嘘の判断が重大な矛盾を孕むことを感じている。

 「嘘」という概念が孕む矛盾と如何にして折り合っていくかが、私たちの人生の重要な課題となり、同時に社会を円滑に運営していく鍵となる。それゆえ「嘘」は重要な哲学的な主題として私たちの前に現れる。「嘘」から哲学を始めることも決して無駄ではない。


(H24/10/14記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.