☆ ウィトゲンシュタインと梯子 ☆

井出 薫

 ウィトゲンシュタインは「論考」の最後で、自らが語ってきたことは無意味であり、梯子をのぼりきった者(=最後まで読んできた者)は梯子を投げ棄てなくてはならないと勧告する。実にご立派、読者としては「無意味な本を読ませるとは何たること!金を返せ。」とウィトゲンシュタインと出版社に文句を言いたくなるところが、もちろん字句通りに受け取るべきではない。ウィトゲンシュタインが展開してきた論理哲学が無意味であることを悟ることで初めて読者は世界を正しくみる。つまり無意味な命題が無意味であることをしっかりと認識することを通じて、有意味な命題は何であるかを知り、無意味な命題でしか語ることができないこと(たとえば、論理そのもの、生、倫理、美など)に対して人はどのように振る舞えばよいかを理解する。無意味だが決して無意義ではない、それがウィトゲンシュタインの「論考」だ(とウィトゲンシュタインは主張する)。
(注)正確に言えば最後から二番目の命題。論考は(ウィトゲンシュタインの言葉の中でも最も有名な)「語りえぬものについては沈黙しなくてはならない。」で締め括られる。

 これは、こんな風に譬えることができるだろう。ウィトゲンシュタインの梯子は一見したところ天に通じているようにみえる。読者は期待して梯子を懸命にのぼる。ところが上り詰めたところは天ではなくただの屋根の上。天との距離は地上にいたときと少しも変わらず無限大のまま。ため息が出るところだが、のぼってきた梯子がそのようなものであることを知り、ウィトゲンシュタインの梯子はもはや自分には不要であることを悟り、それを投げ棄てたとき初めて人は世界を正しくみる。

 自分の述べていることは本質的に無意味であるという認識は、自らの「論考」を批判し克服することを目指して始まったウィトゲンシュタインの中期・後期の哲学においても変わるところはない。梯子は依然として無意味なままだ。しかし梯子に対してとるべき態度が変わる。「論考」では梯子を投げ棄てることが勧告されるが、中期・後期の哲学では、梯子を投げ棄てるのではなく梯子を伝って降りてくることを勧められる。「ざらざらした大地へ戻れ!」これが中後期のウィトゲンシュタインのモットーだ。

 ウィトゲンシュタインがどこまで正しいかは分からない。しかし哲学が科学と異なり無意味なものに思えながらも、どこか大切なものがあるという感じはたいていの者が持っている。科学には還元できず、かと言って文学とも、神学とも違う。哲学には時代が変わっても廃れることがない意義が存在するように思えるのだ。それがなぜなのか、そのような感覚がどこから生じるのか、その感覚が適切なものなのか、それをウィトゲンシュタインは自らの哲学的実践において問い続けた。

 そこにウィトゲンシュタインが人々を魅了し続ける理由がある。哲学を無意味だと思いながらも魅了されてしまうという人間の本性が、彼の人生に最も見事に表現されているからだ。だからウィトゲンシュタインという梯子は無意味なのに決して手放すことができない。


(H24/8/18記)


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