井出 薫
「1.世界とは成立していることがらの総体である。」、「1.1.世界とは事実の総体であり、物の総体ではない。」ウィトゲンシュタイン「論考」の冒頭の言葉だ。 ウィトゲンシュタインの「論考」が正しいかどうかはここでは問わない。ただ、ウィトゲンシュタインがどういう姿勢で哲学しているかを考えてみよう。ウィトゲンシュタインはここで「世界」を人間の意志から独立した存在として構想しているのではなく、世界を対象化する人間の視点から考えているということに着目しよう。「ことがら」、「事実」とは、あくまでも人間(「私」、または、「私たち」)が在ってこそ、在るものであり、もし人間がこの世から消えてなくなればなくなってしまう。「月が地球の周りを回転する」という事実は、一見したところ、人間の存在とは無関係に思えるかもしれないが、そうではない。人間が「月が地球の周りを回転する」と認識する(=構成)するのであり、人間存在抜きにして成立する客観的な事実など存在しない。なぜなら、別に「月が地球の周りを回る」と語る必要性も必然性も対象世界の中にはどこにもないからだ。 つまり、「論考」のウィトゲンシュタインは、カントに倣い、世界を認識論的な視点から構成している。世界とは、唯物論者や通俗的なマルクス主義者(たとえばレーニン)が考えるような人間の意志から独立した客観的な存在などではない。世界とはあくまでも私の(又は私たちの)世界なのだ。 これは認識論から出発する哲学、認識論の存在論に対する優位性を主張する哲学といってよい。カントに始まり、19世紀以降の哲学は総じて認識論優位の立場をとる。ヘーゲルから大きな影響を受けているマルクスですら、対象と認識をはっきりと峻別するというその方法論を吟味すれば、認識論を重視していることが分かる。ヘーゲルも、また、最初の大著は「論理学」ではなく「精神現象学」であり、認識の働きからその哲学を説き起こしている点でやはり認識論的と言える。哲学の根本問題は「存在(在る)とは何か」であるとするハイデガーでも、世界を、存在に触発されながらも(「世界=内=存在」としての)人間存在(実存)を通じて開示されるものと捉える点では、ウィトゲンシュタインの「論考」と通底しており、自らの哲学を「基礎的存在論」と銘打ってあるとは言え、その哲学は認識論を基盤として展開されている。 (注)晩年のハイデガーは、「存在史の構想」において、哲学の終焉に言及し、認識論的基盤を放棄したとみることができる。とは言え、そこに至る思索はやはり認識論的なものに留まる。 これに対して、存在論優位の立場をとる者は、世界を客観的な実在として捉える。彼と彼女たちは、(根源的な何かとしての)存在そのものは、人間存在とは無関係に実在する者であり、人間存在とその認識は、その存在そのものの後から生まれたものに過ぎないと考える。 存在論優位の思想は哲学界では旗色が悪い。「存在」という概念そのものは人間が生み出したものだから、人間の認識を先に解明する必要がある、認識論こそ人間が開く世界を明るみに出す土台である、こういう反論がただちに提示される。「世界」とか、「存在」という言葉を掲げた時点で、すでに認識論的な問いに対してある種の決定がなされてしまっていると哲学者たちは指摘する。それゆえ、認識と離れた存在を主張する者は、哲学的に間違っているという批判に晒されることになる。 ところが、諸科学、特に自然科学に従事する者たちの素朴な考え方は、まさに、存在論優位の立場であり、特に唯物論的な思想がその代表格となる。そこでは、ウィトゲンシュタインが否定した「世界とは物の総体である」という思想が寧ろ支配する。物理学者はこの考えに従い、素粒子と場、時間と空間の集合体として世界を捉える。そしてそれを人間により構成された存在としてではなく、客観的な実在の人間的な表現だと考える。確かに哲学者が語るように、素粒子も場も、時間も空間も優れて人間的な産物(概念)ではある。しかしそれは、単にそういうものが「言葉である」=「言葉で表現される」という以上のことを意味する訳ではない。従って、世界とは(広義の)物の集まりであり、実験や観測によるデータ収集と分析、数学を活用した合理的なモデルの構築、モデルから帰結する様々な予測や説明と収集・分析されたデータとの照合など適切な方法により解明される対象世界として(人間の意志に先立ち)実在するものだとされる。そして「存在」とは、この「(広義の)物」と表現される実在者を表現する用語となる。 (注)唯物論に対して唯心論という立場があり、世界を精神として捉える。しかし、世界を物質と捉えようと、精神と捉えようと、その思想が「(広義の)物」という実在を核とすることに変わりはない。つまり、世界が物質であるか、精神であるかは、存在論を出発点とする限りは、単なる言葉と印象の違いに過ぎない。どちらの言葉を使おうと、世界が人間から独立した客観的な存在であることに変わりはない。 このような自然科学者によく見られる素朴唯物論的な思想は、科学技術の時代ともいわれる現代においては、ごく普通の一般人が支持する思想でもある。つまり、哲学者の間では、存在論よりも認識論の優位が確立しているが、哲学者を除く他の人々は(無意識のうちに)存在論を認識論に優先させている。 (注)たとえば「「脳神経系」という言葉で呼ばれる有機的な物質が実在し、その働きにより様々な認識が生じる」これは常識的な考えだが、ここでは存在論(「脳という物質が実在する」という前提)が優先されている。脳が実在するということがどのように正当化されるのか、などと私たちは決して問うことはない。つまり認識論抜きで存在論的な選択が遂行される。 存在論か認識論かという議論には結論はない。ただ、哲学者と哲学者を除いた人々でその優先順位が異なることは注目に値する。この逆転にも拘わらず哲学者以外の者たちも依然として哲学に魅力を感じ、それを学び語ろうとしている。 そのことについて、いかなる評価もここでは下さない。私はこれまで哲学を不毛な学であり克服すべきものと考えた時期もあれば、哲学こそ重要だと考えた時期もある。しかし結論は出なかった。いや、そもそも結論が出るような問題ではなく、人が哲学を求めるときがあり、求めないときもあるというだけのことなのだ。しかし、いずれにしろ、哲学者と他の人々では、存在論と認識論の関係が逆転しているという事実は、哲学がしばしば不毛な学と断罪され、哲学者が無視される、あるいは科学者から非難される又は揶揄される理由を説明する。その一方で、この逆転は、哲学が人々に新しい物の見方、考え方を提示する可能性を示唆する。このことが、しばしば哲学が人々を魅了する理由を語っている。但し、そのことは哲学が実りあるものであることを保証するものではない。 了
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