☆ 哲学は何を問うのか ☆

井出 薫

 数学や物理学は真理を問う。数学では、証明で真理を明らかにし、物理学は数学的整合性と実験や観測結果との突合せで真理を明らかにする。20世紀の哲学者が明らかにした通り、物理学など自然科学の真理性は厳密に言えば疑問が残る。物理理論は完全な検証もできないし、完全な反証もできない。天動説は誤りとされているが、地球を全宇宙の中心とする座標系を使って全ての天体現象を説明することはできる。ただそれは恐ろしく複雑になり、新しい星の発見や将来の天体の位置の予測などには役立たない。しかし論理的に天動説の成立する余地がない訳ではなく、同じように全ての物理理論について複雑さと不自然さに目を瞑ればその正しさを根拠づけることは不可能ではない。それゆえ逆に言えば如何によく立証された理論でも誤っている可能性は否定できない。しかし、それでも物理学の理論の数学的整合性は誰でも納得できるし、理論と自然現象との関連性も非常に明快だ。重箱の隅を突けば、それは人間のやることだから弱みは出てくるが、全てを物理学理論に帰着させようとする無謀な試み(物理主義)などを脇に退けておけば、物理学を筆頭とした自然科学の真理性を疑うことの意義は乏しい。更に、数学や自然科学は真理を問うものだという思想が説得力を持つのは物理学(天文学を含む)や化学、生物学などが自然現象を予測し、また制御するために極めて強力な道具だからだ。これは決してプラマティズムの基準ではない。あらゆる真理は対象との関わりの中に生まれてくる。自然という対象に働きかけて予測した結果を得て、また期待する効果を実現するとき、それは対象との関わりで真理を明るみに出すことを意味する。このように物理学など自然科学は数学と共に真理を探究する学だと考えることができる。

 文学は話し言葉や文字を使う芸術であり、全ての芸術がそうであるように美を問う。美を問うとは、共感(ときには反感)を求めることに等しい。美は単なる形式ではなく、証明することができるものではない。形式が重要となる芸術分野においてすら、芸術はその形式を道具として援用しながら人々の共感(または反感)を喚起することで成立する。なぜなら、そもそも芸術とは、他者との出会いの中で、架空の空間を張り巡らし、自己を異化し同時に他者を同化しようとする試みだからだ。それゆえ、芸術の本質的な働きは、良きにつけ、悪しきにつけ、共感(または反感)を通じて成立する。もちろん芸術創造の背景にはフーコーが指摘するような主体を構成する不可視の権力が存在する。芸術は完全に自由な創造ではなく、社会の様々な構造や無意識のうちに作用する力に束縛されている。従って共感も芸術作品が単独で生み出すものではなく、作品を取り巻く社会の構造の中で与えられる。つまり芸術が自由に共感を生み出すわけではない。だが、それでも、芸術活動において何よりも重要な因子が共感であることに変わりはない。芸術の価値は共感できるかできないかで決まる。それは数学的な計算に還元されるものではない。人間の脳など身体器官を観察して、共感を抱くときの身体の働きを解明し、それを基にして数学的な美のモデルを作ることはできる。しかしそれは本当の意味での美の理論ではなく、美を捉えること、つまり共感を得ること・与えることに随伴する自然現象を語る自然科学的なモデルに過ぎない。美という意味、共感が有する意味作用はそこでは完全に抜け落ちている。それゆえ芸術は科学のように真理性を問うものではなく、共感を求めるものであることが明白になる。

 では、哲学は何を求めているのだろうか。哲学に真理性を求めることは難しい。ハイデガーやヘーゲルの思想が真か偽かを問うても、数学や物理学のように答えは返ってこない。特定の哲学思想へのコミットは、結局、その思想に共感することができるか(あるいは反感を抱くことができるか)による。そこで問題となっているのは真理ではない。しかしだとすると哲学は文学と同じ性格を持つ同じ活動なのだろうか。そうとは言えない。「優れた文学は真理を教える」などと語られることはあるがそれはメタファーに過ぎない。文学では、数学や物理学が適切であることの指標である「真理性」は問題になりえない。しかし哲学は真理性要求がそこに常に含まれている。ハイデガーの哲学が真か偽かと問うことが無意味だとしても、ハイデガー、あるいはその思想に共感する者たちはそこに真理を読み取る。逆に反発する者たちはそこに偽あるいは無意味性を嗅ぎ付ける。

 だとすると哲学とは科学と文学の中間に位置するものあるいはそれらを包含するものだと考えるべきなのだろうか。フッサールに倣うなら、まさに哲学は両者の中間に位置しつつ両者を包含するものという比類なき地位を占めることになる。それは哲学が学問と芸術を育む大地であるということを意味する。しかしこのような考えには聊か無理がある。フッサールや分析哲学者たちは厳密性に拘るが、「厳密な学としての哲学」などという発想は哲学への過大なる思い込みに過ぎない。

 そうなると、哲学とは下手な科学であり、詰まらない文学だということになりはしないだろうか。プルーストの「失われた時を求めて」は難解な小説と言われるが、それを読破することと、ハイデガーの「存在や時間」やヘーゲルの「精神現象学」を通読することを比較すると、後者が如何に苦痛であるかを容易に体得できる。つまり哲学を文学の一種とすると、哲学ほど読むに堪えない著作が揃う文学分野は他にない。プラトン、デカルト、ニーチェなどはなかなか面白いがそれでもそれをもし文学だと考えると、とうてい傑作とは言い難い。一方、哲学の論証や説明が、その真理性において数学や物理学とは全く異質な次元にあることは容易に見て取れる。そこでは特定の主張や命題が真理(又は偽)であることを検証することも反証することもできない。読者がある哲学思想に重要性を見て取ることが出来るかどうかは、その思想に共感できるか否かであり、その説明や主張が科学的な合理性基準に適っているか否かではない。そもそも哲学思想に適用できるような合理性基準など存在しない。

 こうなると、哲学など何の役にも立たない学、出来損ないの科学であり、かつ出来損ないの文学ということになりかねない。だがもし本当にそうならば、すでに哲学は淘汰され、知の場所からも、美の場所からも排除されているはずだ。だが、そうなっていない。

 哲学は社会科学の一分野であり、その基礎という地位を占めるという考えがある。だから哲学は多くの人々の興味を惹く。こんな風に説明することはできるだろうか。一理あるとは思う。しかし現代において哲学を社会科学に位置づけることはできない。数学と物理学を筆頭に、明晰な方法と道具を有し、現実と絶え間なく接触している自然科学とは比較にならないが、社会科学もまた真理性を要求する。自然科学のような普遍性や客観性は欠く(正確に言えば、客観性や普遍性を要求するのではなく、説得的な議論を求める学である)とは言え、社会科学もまた論理性、合理性、実証性を重視し、哲学とは一線を画する。その証拠に社会科学は文学とは明確に異なる。それゆえ、哲学の存在意義を社会科学との関係において捉えることはできない。また少なからぬ読者の哲学への興味をそこから説明することもできない。
(注)ただし、社会学や文化人類学、法学などを見ると分かる通り、両者が近い位置にあること、近い性質を持つことは事実と認める必要がある。だがそれでもそれは表層に過ぎず、その根底においては全く異質なものとして存在している。

 哲学とは可能性を問う学だと考えるべきだ。19世紀のダーウィンの進化論や20世紀前半の物理学革命が示す通り、数学や自然科学の発展が新しい可能性を開くことは珍しくない。ただそれは数学や物理学にとって本質的な出来事ではなく偶発的な事件に過ぎない。ミクロの世界や光速に近い世界がニュートン力学から逸脱しているのは、物理学の本質に根差すことではなく偶然に属する。なぜならこのような領域でもニュートン力学が成立していても少しも不思議ではないからだ。ニュートン力学から逸脱していくことは必然ではなく偶然で、それゆえ新しい可能性を開いたことは事実だとしても、それは単なる副次的な出来事に過ぎない。一方文学は勿論新しい世界を開く。他の芸術と同様に文学も架空の空間の形成を不可欠とするからだ。だが文学が開く新しい可能性は知に働きかけるというよりも情に働きかける。だからそこでは学的な真理性はほとんど問題にならない。情に動かされ開かれた道はそれだけではしっかりと舗装されたものとはならない。一時の熱狂だけで終わり、ある時は思わぬ悪しき方向に展開し、ある時は呆気なく終焉する。つまり文学が開く可能性はそれだけでは確固たるものとはならない。

 こうして、科学と文学が開く新しい可能性は偶発的であるか、確固たる輪郭を持たない一時的なものに留まる。これに対して、科学と文学の両方の性格を持ち、不完全で不可解ですらあるが、真理性への要求と共感への要求を共に有し、長い伝統を持つ哲学こそが、新しい可能性を開き、それに明確な輪郭を与えるものとなりえる。勿論そこには科学や文学さらには社会的な様々な実践と相互作用が存在しており、相互作用を通じて初めてその機能が十全に発揮されるのであり、決して哲学という閉じた回路の中だけで新しい可能性を開くことが出来る訳ではない。しかしながら、それでも、科学と文学だけでは開くことが出来ない新しい可能性が哲学によって開かれるという機能を看過することはできない。哲学は依然として、いや永遠に人間にとって欠かせない学として留まり続ける。そして、だからこそ、人々は一見したところ無意味だったり過去の遺物だったりするように映る哲学に時として強い関心と期待を寄せることになる。逆に言えば、(専門家以外の者を含む)哲学する者は、そういう読者と市民への期待に応えるべく努める必要がある。


(H24/7/1記)


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