☆ 経済は社会の土台か ☆

井出 薫

 マルクスは哲学ではなく経済学こそ人間社会と歴史を理解する鍵だと考えた。現代の主流派経済学者の多くも、経済学こそ最も基礎的な社会科学だと自負している。アマルティア・センは、合理的な人々が効用の最大化を目指して行動するという主流派経済学の仮説を批判して、そういう空想的な主体を「合理的な愚か者」だと皮肉り、人間の活動が単なる限界効用計算に還元されるものではないことを指摘した。しかし、それでもセンの思想は、やはり経済学の枠組みの中にあり、それを超えるものではない。マルクス、自由主義的主流派経済学者、センやヴェブレンなど非主流の経済学者、経済人類学に巨大な影響を及ぼしたカール・ポランニー、など多くの偉大な思想家たちが、経済が社会の土台であることを認め、経済学が社会科学の中で卓越した地位を占めることに(明確に、あるいは暗黙の裡に)同意している。しかし、経済という領域は本当に人間社会の土台を形成するものなのだろうか。

 4つの段階を経て、この思想が支持される。@労働生産物とその適切な分配がなければ社会は維持できない。Aそれゆえ、労働・生産と流通・消費が円滑に進むように社会体制が整備されなくてはならない。Bそのためには、経済活動の外部領域、たとえば政治、文化、宗教、学問などは経済活動・経済体制に貢献する必要があり、(意図せずとも)事実貢献している。Cだから、経済が社会の土台であり、他の領域はそれに従属する。それに照応して、社会科学の中で経済学こそが王座を占める。
(注)厳密な議論を展開するには、「経済」という概念で何を意味するか明確にする必要がある。しかし、ここでは、労働を起点とする生産・流通・消費の総過程と生産物の分配を規定する諸機構を意味するものとし、それ以上深く議論はしない。また、「社会」という概念も極めて多義的であり、議論の余地が大きいが、こちらは「法や道徳など様々な規範に制約される人間と労働活動を通じて生産・獲得される財からなる集合体で、それらに内在する様々なシステム、要素間の相互作用等を含むもの」というくらいの意味で捉えておく。本稿は、社会という場において支配的な領域が存在するか否かを問うものであり、社会や経済の厳格な定義を必要とするものではない。また厳格な定義は事実上不可能であると言わなくてはならない。

 @については自明と言えよう。人間社会は、誰かが働かないと維持されない。そしてほとんどの者が働く。労働なくして生産はなく、生産なくして人間社会を維持することはできない。社会の全成員が一日中ゲームをしていたり、正義とは何かについて議論をしていたりしたら、社会は1か月ももたない。このことから、経済的諸課題に対する配慮は社会にとって最重要課題であることは間違いない。

 AとBについても、概ね妥当と認められる。政治や法、思想が、経済と合致しない場合、生産や分配は上手くいかない。たとえば人々が私的所有と貨幣の所持を厳しく禁じる宗教を篤く信仰しその教えを厳格に守っている共同体では、資本主義的経済体制は成立しない。つまり、経済と経済の外部とが(一定範囲の不整合は常に存在するとしても、概ね)整合しない限り社会は安定しない。

 それゆえ問題はCにあることが分かる。実は、@からBの議論とCの帰結には飛躍がある。

 同一の性質と面積を有する土地と社会的財がある場所に、片や中国の文化と思想を継承する人々1万人が移住し、片やアメリカのそれを継承する人々1万人が移住すると仮定する。さらに、それぞれの場合で、文化や歴史は異なるが成員の労働能力は全く同じだとする。また、どちらの場合も母国を含めて諸外国との関係も全く同じだとする。このとき、二つの場所では、まったく同じ経済体制そしてそれに照応した同じタイプの社会が誕生することになるだろうか。ならない。時には著しく異なることも考えられる。同じ環境でも成立する社会は歴史的伝統や政治やそれを支える思想などにより異なる。経済構造も異なってくる。環境と成員の労働能力だけでは社会は一意的には決定されない。経済構造もその例に漏れない。なぜなら、ある水準以上に進歩した社会では、社会を維持するために必要とされる生産物を生産・流通・消費する様式は決して一つには定まらないからだ。およそ剰余労働が可能な場所では、社会の構成には多様な選択肢がある。どの選択肢が選ばれるかは経済だけでは決まらない。

 それでは、社会体制や経済構造を決めるのは何か。それは時と場合による。しかし、マルクスにおいて上部構造に分類される宗教や文化などが強力な要因となる場合も当然想定しうる。実際、ウェーバーが示した通りそれが歴史的現実であることもある。経済は自然環境と生産力だけでは一意的に決まらないし、経済構造だけで社会全体が決まるわけでもない。つまり、経済が最重要な領域であることは事実だとしても、それが社会の現実的な土台となるとは限らない。寧ろ、政治や法体制、伝統・文化・宗教などが支配的な要因となり、経済体制が決まることもある。つまり、経済と経済外の領域を比較対照して、どちらが支配的かという問いを一般的な問題として提起することには無理がある。両者は相互に制約し、時には経済が優位に立つし、時には逆の場合もある、と考えなくてはならない。
(注)ただし、大きな歴史的な視野で眺めるとき、経済が歴史的変化の最も支配的な要因であることは否定し難い。奴隷制度や封建制度と自由市場経済は両立せず、生産の拡大と共に市場が奴隷体制や封建体制を侵食・解体していくことはおそらく人類史の必然だったと思われる。とは言え、生産と市場の拡大は、政治、法、文化、思想などを一意的に決定するものではない。また、政治や文化、思想、さらには自然環境などが生産拡大の決定的な要因となることもありえることを忘れてはならない。

 そして、このことに照応して、経済学もまた社会科学の中の基礎的分野と言うわけではないことが明らかになる。経済学の社会科学の中で占める地位は、自然科学における(理論展開の基礎であり、様々な保存則で象徴されるとおり絶対的な拘束条件となる)物理学のそれとは異なる。それは基礎と言うよりも、法学、政治学、文化人類学、社会学、哲学など他の学問分野と相互に影響しあいながら同一平面上で共進化していく学問の一領域をなしていると考える必要がある。この事実を忘れ、経済学至上主義に陥り、自由主義経済という前提で展開されるに過ぎない現代経済学を、安易に一般化し様々な領域に適用すると大きな誤りを犯すことになる。このことを肝に銘じておく必要がある。


(H24/6/23記)


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