☆ チューリングとコンピュータ ☆

井出 薫

 オバマ大統領が同性婚を認めると発言した。賛否は別にして、彼が今生きていればと残念でならない天才児がいる。その名はアラン・チューリング。今年はチューリングの生誕100年。世界各国でチューリングに因んだイベントが行われ多数の書籍が出版されている。

 コンピュータの父と称賛されるチューリングは同性愛者だったと言われる。しかし当時のイギリスでは同性愛は犯罪とされ、チューリングは逮捕され強制的にホルモン療法を受けさせられる。その影響かどうかは定かではないが、精神的に不安定になったチューリングは41歳の若さで自殺する。コンピュータサイエンスや純粋数学だけではなく、非線形現象や数理生物学などの分野でも画期的な業績を上げたこの不出世の天才は、現代に生きていれば、長生きして、さらに大きな業績を残していたに違いない。現代社会はコンピュータなしには成り立たない。マイナス面もあるとは言え、コンピュータが産業と人々の生活とを格段に改善したことは決して否定できない。改めて、この偉人に敬意を表したい。そして、このような悲劇が繰り返されないことを祈りたい。

 チューリングの最大の業績がチューリングマシンの提唱であることに異論はないだろう。現代のコンピュータはチューリングマシンの原理を実体化したものと言ってよい。もちろん、現実のコンピュータはチューリングマシンとは異なる。無限のメモリがあるわけではなく、その代わりに遥かに短いステップで計算が遂行できるように工夫されている。それでもコンピュータはチューリングマシンの一つのバージョンだと言ってよい。何よりも凄いことは、チューリングマシンがごく簡単な機能しか持っていないにも拘わらず、人間がなしえるすべての計算を遂行できることだ。「知能とは何か」という問いは難問でいまだに意見の一致をみていない。しかし、広義の計算が知能の重要な要素であることは間違いない。ライプニッツは、知能は全て記号処理=計算に還元されると考えた。ライプニッツが正しければ、チューリングマシンは人間の知能を100%再現できることになる。そして、なおかつ有限なメモリしかない人間にはできないことまでできることになる。コンピュータはチューリングマシンの近似的な存在でしかないが、それでも人間の知能に出来るほとんどのことが今では出来る。もちろん、パターン認識やアルゴリズムのはっきりしない自然言語の理解や翻訳など人間には遠く及ばない分野もあるが、いずれ人間に追いつく日は近い。一方でコンピュータなしには不可能な事業は益々多くなっている。もはやコンピュータなしには電車を走らすことも、金銭の授受をすることすらできない。現代社会はコンピュータとネットワークの土台の上に成立している。すでに多くの分野でコンピュータは人間を遥かに凌駕しており、やがてはコンピュータがコンピュータを製造し、人間の知能では想像もつかないようなことが実現される日が来るかもしれない。

 さて、もうひとつチューリングで忘れることができないのが、チューリングテストだ。目の前にテレタイプがあり、壁の向こうのコンピュータと人間が操作するテレタイプと二本の線で接続されている。被験者はテレタイプから様々な質問をして、どちらが人間であるかを推理する。もし正答率が50%まで下がったら、そのときにはコンピュータは考えることができる(=人間と同等の知能を持っている)と認めてよいとチューリングは提案する。この提案には多くの異論がある。しかし、「思考」とか「知能」の明快な定義や説明がない以上、チューリングの提案は実に説得力がある。思考や知能を、人間存在に内在する何かではなく、他者との関係性において理解しようとする点では、20世紀以降の哲学的傾向とも一致する。いや、逆に、チューリングの提案が、自律した主体としての人間という概念に深い懐疑をもたらしたとも言える。

 では、チューリングテストに合格したら、私たちはそのコンピュータを人間と同等の知能を有する者として処遇するだろうか、するべきだろうか。おそらく多くの者は否定するに違いない。確かに、人間存在は知能に還元される訳ではない。生命は知能の土台であり知能に支配されるものではない。愛犬や愛猫はコンピュータのように難しい計算や問題の解答はできないが、生命を有するという点でコンピュータに勝る。そして、その存在はコンピュータよりも尊重されるべきだと多くの者は考える。生命なき知能は尊敬に値しない。いかに賢いと言ってもコンピュータは所詮機械に過ぎない。動物愛護や生態系の保全は人類にとって欠かせぬ責務だが、コンピュータを製造したり廃棄したりすることにはほとんど道徳的な意味はない。

 チューリング自身もそのことを認識していた。科学の大天才としては聊か不思議な感じがするが、チューリングはテレパシーの存在を信じていた。そしてテレパシーこそ、コンピュータが持ちえない人間固有の能力だと考えていた。当時はテレパシーを本気で信じる者が今よりずっと多かったとは言え、チューリングほどの人物がテレパシーを信じる背景には、コンピュータと人間の差異を解消することはできない、してはならないという認識と倫理があったと思われる。

 生活の隅々にまでコンピュータが浸透した現代、人間の知能とコンピュータの機能の差は縮まっている。チューリングテストに合格するコンピュータの登場も遠い未来の出来事ではないかもしれない。もちろん、コンピュータがチューリングテストに合格しても、人間や他の動物たちと対等の尊厳や権利を付与する必要はない。チューリングテストに合格しても、相変わらず、コンピュータは無生物であり、生命なしの知能、機械の一種であることに変わりはない。

 それでも、知能は人間の本質的な要素であることは否定できず、その存在において尊厳を持つ人間の知能とコンピュータのそれが同等であるという状況が生じたとき、本当にコンピュータに何らかの権利を付与しないでよいのかという疑問が生じてくるように思われる。チューリングはその性的傾向を当時の社会が理解しなかったために悲劇に襲われた。もしかすると、チューリングテストに合格するほどに高度化したコンピュータは、もはや単なる機械ではなく、知能だけではなく何らかの感情を有する存在へと変貌しているのかもしれない。そのときには、それを単なる機械だとして人間の恣意で作り壊すことは、チューリングの悲劇を繰り返すことになる。


(H24/5/27記)


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