井出 薫
倫理学あるいは正義論では、対照的な学説として、功利主義とカントの義務倫理が取り上げられることが多い。ベストセラーになったサンデル教授の「これからの正義を語ろう」でも、アリストテレスの目的論的な正義論とリバタリアニズムの正義論と並んで、二つの学説が詳しく紹介されている。 (注)なお、同書ではロールズのリベラリズムはカントの延長線上に位置するものと解釈されている。但し、それが妥当な見方かどうかは議論が分かれる。 功利主義はベンサムに端を発し、ミルにより洗練され、現代の英米の代表的な倫理学説となっている。それは単なる英米の一倫理学説に留まらず、現代経済学の思想的なバックボーンにもなっている。「最大多数の最大幸福」このベンサムのスローガンは、自由競争市場において社会的利得が最大化するという現代経済学のテーゼと恐ろしいくらいに符合する。いや、そのものだと言っても過言ではない。そもそも経済学が「効用」という概念を重用し、一定の成果を挙げているのは、現代社会が、意識するとしないとにかかわらず、功利主義的な倫理観に支配されていることを示している。 実際、後述するカントの義務倫理と比較して功利主義は現代人にとっては極めて分かりやすい。多数決なども功利主義の立場から容易に正当化できる。これに対してカント的な倫理では多数決の優位性を論証することは容易ではない。ここで、功利主義を支持する事例をひとつ考えてみる。 消防士たちが火災現場に到着する。二つの家が燃えている。どちらの家にも逃げ遅れ救助を待つ者たちがいる。事態は切迫している。すぐに助けないと危険だ。しかし消防士たちの人数と装備では二手に分かれて救助活動をすることは不可能で、どちらか一方を優先せざるを得ない。では、どちらを先に救助するべきか。緊急度は同じ救助できる可能性も同じ、救助に要する手間も同じだとしよう。ただ片方の家には5人いるが、もう片方には1人しかいない。あなたならどちらを先に救助するだろう。ほとんどの者が5人の方だと言う。まさに、これが功利主義だ。5人の命を助ける方が1人を助けるよりも総計で幸福度は4人分高い。だから5人を先に救助する。そして、これは間違った判断ではない。 さきに多数決を取り上げたが、これも同じ論理で正当化される。また、市場が支持されるのは、完全自由競争市場で社会的利得(消費者の効用と生産者の利潤の和)が最大化するという理論的モデルによるところが大であるが、この論理が功利主義と同じ軌道を回るものであることは容易に理解できよう。 だが、多数決や市場が万能ではないように、単純な功利主義もすぐに限界を露呈する。別の事例を考えよう。身寄りのない老女が病院のベッドで寝たきりになっている。病気は重く、もう長くはない。そんな彼女が何よりも大切にしている物がある。亡くなった夫が若いころ誕生日のお祝いに買ってくれた指輪だ。それを毎日彼女は眺めて暮らしている。その指輪は(市場的な)価値があるらしい。そこに一人の遊ぶ金欲しさの若い男が遣ってくる。男は老女を騙して指輪を奪い行方をくらます。どこかで指輪を売りその金で遊んでいるに違いない。さて、功利主義から言って、この男の行為は非難できるだろうか。老女に残された時間は短い。しかもベッドから外には出ることが出来ない。一方、男は若く金を手にして楽しい時を過ごすことが出来る。両者の幸福度を足し合わせると男が指輪を手にしたことで総合での幸福度は増している。だからと言って、男の行為を許すことができるだろうか。ほとんどの者が許さないと言うだろう。もちろん私もそうだ。功利主義を使って、男を非難する理屈を立てることができない訳ではない。二人だけで幸福度の総和を測定すれば、男が指輪をだまし取ったことで幸福度は上がる。しかし、そのような不埒な行いをする男が社会の中で金を手にしてのさばっていることは社会全体にとって大きなマイナスになる。だから、老女の手から男の手に指輪が渡ったことは、社会全体で見れば幸福度がマイナスになる。こういう風に、功利主義に基づき男の行為を非難することができる。だが、これには無理がある。もし男が金にはだらしないが、優れた芸術的才能の持ち主で、絵を描いて人を喜ばすことが出来る人物だったとしたら、どうだろう。それでも社会全体では幸福度が下がると言えるだろうか。言えない。では、男が有能ならば、老女の大切な指輪を奪ってもよいのだろうか。良いはずがない。死を前にしているとは言っても、まだ懸命に生きている一人の女性、その心の支えである指輪を奪う権利など誰にもない。それを奪うことが悪であるのは、それにより社会の幸福度が下がるからではない。それは、それ自体として端的に悪なのだ。もしそうでないとしたら、「罪と罰」のラスコーリニコフは正しいことになる。 現代の洗練された功利主義はこれほど単純なものではない。個々の行為を見るのではなくルールという単位で効用の大小を比較するとか、空間と時間を広くとってその全体で幸福度を評価するというような多様な手法を使い多くの事例を適切に評価できるようになっている。しかし、それでも、老女の指輪を奪うことが悪であることを論証することはできない。もう一つ例を挙げよう。二人の幼児が入院している。一人は不治の病を患っており長くて半年とみられている。もう1人も重い病を患っているが心臓移植をすれば助かる。ところが移植用の心臓が手に入らない。そこで半年の命の子から心臓を摘出して移植することを医師は考える。医師の考えは正しいだろうか。正しくない。医師が遣ろうとしていることは紛れもない殺人だ。大多数の者がそう答えるだろう。しかし功利主義的に考えれば医師の行為は間違っているとは言い切れない。このままでは二人とも近いうちに死んでしまう。不治の病の子から心臓を摘出して移植すれば、不治の病の子は早死にするが、もう一人の子は長く生きることができる。長く生きることが幸福に繋がるかどうかは分からないが、なすすべなく死んでいくよりは遥かに幸福少なくとも幸福になる可能性がある。だから功利主義的に評価すると、医師の考えにも一理あるということになる(注)。だが、これは私たちの直観に反する。不治の病の子が脳死したのであれば、異論もあるが移植は正当化される。また植物人間となり回復の見込みはほぼ百パーセントないとなると微妙な議論になる。しかし、たとえ残り少ない命だとしても、その子はまだちゃんと生きている。話しかけると嬉しそうに笑う。どんな理由があろうとも、誰にも、この子の命を奪う権利はない。この点で争う余地はない。これが私たちの倫理であり、正義だ。しかし、この正義は功利主義からは出てこない。子供を殺してはいけない。この正義は、幸福度の最大化とか、子供の存在価値とか、そういう外部的な原理から導出されるものではない。それは端的に、誰もないがしろにすることが出来ない、絶対命令としての正義なのだ。 (注)この医師の理屈が広く世間に行きわたると、人の命を救うためと称して殺人がいたるところで正当化されかねない。そんなことになれば、社会にとって大きな不幸だ。だからこの医師の考えは正当化できない。このように功利主義的な観点で、医師の考えを却下することができるかもしれない。だが、もし、医師が誰にも知らずに、自然死に見せかけて不治の病の子を殺し別の子に心臓を移植することができるとしたらどうだろう。ばれる可能性がなければ、社会に悪しき影響を与えることはない。だが、そういう場合でも、私たちは、医師の考えは正当化できないと考える。 この正義の絶対性を強調するのがカントだ。カントの正義は、結果や波及効果を考慮に入れない。カントにとって、正義とは、それをなすことがどのような帰結に至ろうとも、誰もが決してないがしろにできない唯一無二の存在なのだ。カントの考えは余りにも厳しすぎるという批判がある。しかし、正義が有する絶対性はカントの立場を採用しないと理解することはできない。さもないと(違法性阻却事由の緊急避難を別にして)人を殺すことは悪いことだという私たちの常識は根拠のない幻想に過ぎないということになりかねない。実際、一時、「なぜ人を殺してはいけないのか」という議論が話題になったことがあった。だが明確な結論が出ないままに論争は終わった。殺人を拒否する倫理観に数学の公理と証明法のような明確な根拠はない。つまり殺人が悪であり、許されないことであるのは、何か明確な論拠があってそうなのではなく、端的に殺人を許さないことが正義だからなのだ。 だが根拠がないなら、単なる思い込みに過ぎないということにならないだろうか。カントは違うという。根拠がないということと、無根拠であるということは同じではない。確かに、倫理は、数学の計算のように公理から導出できるものではない。その意味では根拠となる原理はないと言ってよい。しかしそれでも正しいということはある。事実、私たちは誰もが殺人を許しがたいことであるという意見に賛同する。根拠を問われると答えられないが、それでもその正しさは分かるということはたくさんある。殺人の否定、私たちが常識として支持する様々な道徳規則、そういうものの大切さは誰でも分かる。正義とはそもそもそういう性質のものなのだ。だから、カントは、正義は定言命令だと言う。前件なしで正義は正義として認められる。 もちろんカントの倫理学説には多くの難点がある。先ほどは二人の子供の事例を功利主義批判の材料として採用したが、同じようにカントの倫理学説を批判する適当な事例を考え出すことは難しいことではない。(読者が自分で考えてみてほしい。)功利主義が万能でないように、カントの倫理も万能ではない。 (注)ヘーゲル的にみれば、絶対的な命令に見えることも実は歴史的な背景の中で生まれてきたものであるということになる。事実、人類が誕生した時から殺人が悪であると認識されていたわけではない。人を殺すことが普通に行われていた時代もあっただろう。その意味では倫理は絶対ではない。しかしながら、人が、あるいは国家や団体など様々な共同体が一つの決断を下す時、その行為は必然的に絶対的な意味を帯びる。なぜなら、実存主義が指摘するとおり、それは唯一無二、後から取り消すことができない比類なき試みであり出来事だからだ。ヘーゲル的な傍観者は確かに賢いが、自らの決断と行為に責任を持つという観点からすると、余り評価することはできない。寧ろ、現実の局面では生身の人はカント的な定言命法と対峙している。 では、功利主義が成立する領域とカントの義務倫理が成立する領域と二つの倫理的な領域と考えるべきなのだろうか。そうではない。二つの学説は実は同じ人間の行為の正当性が問われるときの二つの側面を象徴するものと考えるべきなのだ。最初の消防士の事例を思い出そう。5人の救出を優先させた消防士の行為は、功利主義から、その行為の内実並びにその結果から正当化された。しかし、消防士たちの行為はカントの立場からも正当化される。なぜなら、一人でも多くの命を救うことが消防士の義務だからだ。ただ、5人の者たちから大金をせしめることが出来ると思って助けたということが分かった時だけカント的な立場からは正義ではないということになる。しかしそういう不純な動機がなければ消防士たちの行為はカントの義務論的な見地からも正当化される。 人の行為には、動機・義務、結果・価値という二つの側面が必ずある。そして人はそして社会は常にこの二つの側面から評価される。しばしば、正と善は必ずしも一致しないと言われる。功利主義は善との関わりにおいて在り、カントは正との関わりにおいて在ると言ってもよいかもしれない。確かに、サンデルがそうであるように、正を優先するか、善を優先するかが問題だという立場をとることもできる。サンデルの解釈では、ロールズは正を善に優先させた、しかしそれは必ずしも妥当なことではないということになる。だが、おそらく、それは間違っている。少なくともミスリーディングな議論だと言わなくてはならない。なぜなら、たとえ正と善を分けられるとしても、両者は表裏一体であり、優劣を問うても、見せ掛けだけに終わる。両者は同じ問題を違う次元で評価するものだということをまず理解する必要がある。カントとベンサムやミルを単純な対立図式の中で見ることは適切ではない。カントを取ることはミルやベンサムを拒否することではない、アリストテレスを拒否することでも、サンデルを拒否することでもない。逆にベンサムやミルを取ることはカントやロールズを否定することではない。 倫理学説はカントの義務倫理や功利主義に限られているわけではない。アリストテレスの目的論と美徳を重視する善の正義論、リバタリアンの正義論、コミュニタリアンの正義論、マルクス主義者の倫理学、実存主義の倫理、経済学が主張する道徳的行動規則など様々な立場がある。これらは互いに相争う面もないではないが、むしろ、人間と社会の様々な側面に着目した互いに補完しあう倫理学説だと考えた方がよい。このことを理解することが実りある議論に繋がることになる。 了
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