☆ 言葉にどこまで期待できるか ☆

井出 薫

 ポストモダニズムの流行に抗してハーバーマスはモダンを擁護し、理性に基づく討議デモクラシーに期待した。

 ポストモダニズムが不発のままに終焉し、振り出しに戻り、今、モダニズムの新しい形での再生が求められている。マルクス主義も一定の再評価がなされている。ポストモダニズムも盛んにマルクスを引用するが、人類の進歩への楽観的な見通し、経済発展の重視などマルクス主義は基本的にモダニズムの思想圏に属する。

 問題は理性に期待することができるかどうかだ。ポストモダニズムは基本的に理性を独裁への入り口として批判する。そして理性を核とする近代西洋哲学の「主体」概念の解体を試みる。これに対してハーバーマスは、ポストモダニズムは理性を専ら戦略的理性に解釈するという誤謬を犯していると指摘する。理性とは、相互了解を目指す対話的理性という側面を持ち、そこにこそ、独裁を排し、抑圧や利害得失から自由な開かれた討議によるデモクラシーの可能性が見出されるとハーバーマスは考える。ポストモダニズムがもっぱら近代批判、人間主義批判、主体批判、理性批判、ロゴス批判など批判に終始したのに対して、ハーバーマスは積極的に、未来のあるべき姿を提唱する。そこに、公共という空間、公共哲学という新しい知と実践の可能性が開かれる。(ある意味、批判に終始した思想運動の当然の結末だが)ポストモダニズムが行き詰まりを見せる現在、その主張が一定の説得力を持つことは否定できない。しかし、対話的理性が実際に発現し機能するかどうかは、言語使用の現実が理に適った対話をもたらすことができるかどうかに掛かっている。人々の意思疎通、共同体の合意形成は、必ずしも明示的な言語の使用に基づくとは限らない。人々の思考や行動を支配する伝統・文化・共同体の物語、さらには情念やレトリックや芸術が個人や社会の選択に決定的な影響を与える。言語の明示的な使用だけが選択を決定するのではない。しかし、こうした要因に基づく決定は多くの場合、無意識的で不合理なものとなる。独裁や他人の生命や権利の抑圧を支持し、非現実な夢想で現実を変革しようとして多くの悲劇を生み出す。結局、最善策は、伝統を基本的に継承し余計な改革はしないというものになる。保守主義の現実性と優位性はこのような事実に基づく。

 それゆえ、言語の明示的で開かれた使用による討議、討議の実践への応用、そして実践の帰趨に基づく討議の再開、この絶え間ない繰り返しで改善を進めていくことだけが真の改革・社会の改良に繋がる。過剰なレトリックと情念が生み出した社会改革の試みはたくさんある。しかし20世紀の教訓は、そのほとんどが最悪の状況をもたらすことを示している。ナチズム、スターリニズム、その他の国々の独裁や虐殺、20世紀の惨劇がそのことを立証している。

 しかし、ポストモダニズムの批判の矛先は、まさしく、言語使用の合理性という仮説にあった。レトリックや情念、時代遅れの伝統や文化、それらと共謀して、いや、むしろ、それらを発動することで、悲劇を生み出してきた張本人こそ「理性」であり「啓蒙」であり、私たちを拘束する言語という体系だったのではないか、これこそがポストモダニズムが突き付けた難題だった。そして、この批判は決して無意味なものではない。議論が開かれた対等なものであることは現代ではほとんどない。専門家や権力者が圧倒的な優位に立ち傍聴者である一般大衆はただの追認者に終わるか、さもなければ、一般大衆が数に頼んで独断的に物事を決定するか、そのいずれかに陥る。親密な人々からなる小規模な共同体で全員参加の下、誠実で対等な立場で議論して物事を決定する、こうした牧歌的な世界は現代には存在しない。技術と産業の進歩は民主化を促すが、その一方で健全な民主制の土台となる健全な討議の可能性を掘り崩す。

 そもそも、言語は決して中立的なものではない。そこには人々の行動と思考を無意識的に支配する諸権力が作動している。言語を通じて、私たちは共同体の一員になる。しかし同時に、人々を支配する無意識的な権力構造に帰属することになる。そのような言語の在り方を考えると、いかに言語使用の合理性を求めても、無駄な試みではないだろうかという疑念が禁じ得ない。この問いに回答できない限り、ポストモダニズムの批判に耐えることはできない。

 ハーバーマスは、オースティンの言語行為論などを援用し言語使用の形式的な構造を研究し、そこにこの限界を打破する可能性を見い出す。ポストモダニズムの批判は一理ある。しかし、無意識の権力を可視化することが出来ないという条件の下でのみポストモダニズムの批判は決定的なものとなる。もし、不可視とされる権力構造を可視化することができ、それを議論の俎上に載せることができれば、私たちは、私たちを無意識的に支配してきた様々な権力を批判、克服し、より良きものへと改革することが可能となる。もちろん、一挙に理想へと到達することなどできはしない。人間は完璧ではないし、背景として隠されてきたものを一時にすべて明るみに出すこともできない。しかし不完全でも可視化できれば、もはやその支配力は全能ではなく、改革可能となる。それゆえ、このようなことが現実的に可能なのかが問題となる。

 オースティンは、言語を世界の記述ではなく、「言語行為」として捉え、そこに行為の3つの次元を見い出した。言語行為は、発語行為、発話内行為、発話媒介行為の3つの次元からなる。言葉を組み立てて意味ある発語として相手に呼び掛けるという行為、発話の中で遂行される行為、発話を通じて媒介される行為、この3つの行為が同時並行的に遂行される。「あなたの家を明日午後5時に訪問します」と語りかける。先ずこれは意味ある言葉を相手に与えるという行為になる。続いて、「明日午後5時に訪問する」という「約束」をしたことになる。この二つ目の行為が発話内行為であり、まさに、言語の中心的な意義をなす。しかし行為はこの二つに留まらない。この言葉はときには相手を拘束したり威嚇したりすることになる。たとえば、この言葉を発したのが刑事で、受け手が容疑者で実は真犯人だったとしよう。言葉の受け手が動揺することは明白だ。夜逃げを画策するかもしれない。この効果は直接言葉の表面に現れるものではない。話し手と受け手が友人だったら、あるいは家族だったら、それは発信者にとっては親愛の情の表出であり、受信者にとっては心を癒すものとなる(この場合「癒し」が発話媒介行為となる)。このように、発話媒介行為は明示的な言語表現だけでは明らかにならない。

 発話内行為こそ言語行為の中心であると論じた。発語内行為は、相互の了解可能性を前提として遂行され、また、相互の了解を得るために遂行される。互いに相手の誠実性を信頼するとき、発話内行為を核とする言語行為は意味あるものとなり、言語行為を通じて、相互の理解と信頼は深まっていく。この言語行為の現実を考えれば、私たちはそこに対話的理性の可能性を見い出すことが出来る。この点で、ハーバーマスの議論には説得力がある。なぜなら、私たちは事実、この発話内行為を絶え間なく遂行しており、そのことにより社会を維持することに成功しているからだ。それゆえ、この言語使用、言語行為の核心(発話内行為)を拡張していくことで、戦略的理性、しばしば他人を支配し抑圧する道具として機能する理性を、公共的な対話を核心とする対話的理性へと転換する可能性の地平が開けてくる。そして、対話的理性は、共同体を暗黙裡に支配する権力構造を明るみに出すことを可能とする。身体の自然現象(血液の循環とか心臓の鼓動など)と異なり権力構造はあくまで社会的存在としての人間の相互作用が生み出すものであり、決して完全に不可視であり続けることなどない。さもなければ、そもそも構造主義やポスト構造主義などポストモダニズムが不可視の権力を語ることはできなかったはずだ。課題はそれを共同体の中で共有し吟味することができるかどうかであり、対話的理性がそれを可能とする基盤として期待される。

 こうして、ハーバーマスの希望が決して夢想的なものではなく、リアリティを持つものであることが明らかになる。だが、これで問題がすべて解決したわけではない。発話内行為だけではなく、言語行為には、発話媒介行為が付き纏う。ときには、発話媒介行為を通じて初めて発話内行為が二次的に遂行されることもある。上司が部下に向かって「ほら、あの件だよ、あの件」と急かすように話しかける。部下は上司の機嫌を損ねたと感じ、あの件(たとえば1週間前の上司の指示)を思い出す。上司はこの言語行為で、再度指示するという発話内行為を遂行したことになる。しかし、それはあくまでも発話媒介行為を通じてである。発話内行為としては明らかに不完全なこの言語行為が発話媒介行為の効果で補完され十全なものとなる。発話媒介行為が主導権を握るとき、対話的理性は姿を消す。上司と部下の会話で明らかなように、発話媒介行為が発話内行為に対して主導権を握るとき、そこに働くのは不可視の権力という構造になる。もし、こういった倒錯した関係が一般的であるとしたら、対話的理性は決して現実のものとはならず、単なる理論的な可能性、直接民主制が可能となるほどに世界が小さくなったときに初めて現実となる空しい理念に後退する。これが本当だとすれば全くの夢想ではないとしても、ほとんど現実味のない目標となってしまう。そうなれば、ポストモダニズムのニヒリズムが再生される。そこでは、私たち(主体の集合)は権力の場に流されだけの不在の存在でしかない。

 どちらが真実なのだろうか。おそらく、これは理論の問題ではなく、実践の問題となる。こう言うと、実践の土台として対話的理性の可能性を論議してきたのに、最終的な結論として実践の課題としたのでは、無限循環に陥ってしまうと反論されるかもしれない。だが、そうではない。無限循環はただ理論の中だけで起きる。実践は常に、その場その場で(不完全だったとしても何らかの)結論が出る。そして、そこから新たな討議と実践が始まる。だから重要なことは人々が自分たちの行動を適宜反省し、討議を通じて吟味することができるかどうかということになる。この答えがどちらであるかは分からない。繰り返しになるが、それは実践の問題なのだ。だから初めから答えを確定することはできない。しかし、そのことはここでの議論が無意味だということを示すものではない。討議を開始することの意義、その討議はすべての者に開かれたものでなくてはならず、また対等性が大事であること、そして討議を支える対話的理性に期待を抱くことが無意味ではないことが確認できただけでも十分な意義を持つ。なぜなら、そこに対話による問題解決の希望が生まれるからだ。そして、この希望が社会を活性化する。

(補足)
しかしながら、この最後の結論は楽観的すぎるという批判があろう。技術と産業の発展が、社会を巨大化すると同時に複雑化する。グローバル化が進展する現代世界では、誰一人として、いや、いかなる組織・集団でも、世界を見通すことはできない。いや、世界どころか足元すら見通すことが出来ない。一連のバブル崩壊や財政破綻、不可解としか言い様がない株価と為替の動き、こういう現実がそれを証している。こういう時代に対話的理性や討議デモクラシーや公共哲学に期待できると言う奴は極楽トンボだという皮肉がどこからか聞こえてくる。現代においては、民主制とは自由選挙権と政治家・官僚への批判の自由だけに後退している、いや、後退せざるを得ないという意見がある。その結果、人々はただ自分の権利を主張することができるだけになり、人々の連帯の可能性は著しく縮小する。こういう世界は必然的に官僚主義へと転化することが避けられない。EUは巨大化することで官僚主義に陥っている。財政健全化が必要であることは分かるが、「財政赤字をGDPの何割以下にすることを義務付ける」などという発想は官僚的発想そのものだ。その結果、EU諸国の財政運営は著しく硬直化し現在の経済危機を招いている。確かにギリシャの財政は危機的だが、ただ緊縮財政を押し付けるだけでは事態の解決にはならない。EU全体が、かつてのバブル崩壊後の日本のようになる危険性すらある。それでも、柔軟な発想が生まれてこない。官僚主義がEUに蔓延しているからに相違ない。結局、集団が、組織が巨大化し複雑化すると官僚主義が避けられなくなる。中国は共産党自体が巨大官僚機構となって社会の隅々まで支配している。官僚主義が避け難くなるのは、討議をする時間的な余裕がなくなり、討議に必要な知識を共有することが困難になるからだ。そのことは原発事故や放射性物質汚染の問題など社会的諸問題の議論の過程で明らかにされている。関係者は全国民、専門知識を共有することは不可能、こういう状況では実りある討議は期待できない。テレビなどで一般市民参加の討論会などが放送されているが、議論のための議論になるだけで実りある議論になったためしがない。こういう場合、市民にできることは、誠実で賢明な専門家たちを責任者に任命し事に当たらせることだけだが、それすらも現実には難しい。そして、この困難な現実を一世紀も前に予言したのがマックス・ウェーバーその人だった。このウェーバーの陰鬱な予言を果たして私たちは克服することができるのだろうか。対話的理性への理論的可能性と希望だけでは弱いという批判は真摯に受け止める必要がある。問題は人間の(脳神経系を含む)身体が関わることが出来る空間と時間が限られているというところにある。ITなどでそれを克服することはできない。寧ろ情報量が巨大化して益々討議を困難にする。しかしながら、論拠を示すのは別の機会に譲るが、それでも道はあると私は信じている。

(H24/5/2記)


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