☆ 物理学と経済学〜その位置 ☆

井出 薫

 自然科学の基礎は物理学で、社会科学の基礎は経済学だという考えがある。極端な立場では、自然科学は全て物理学に、社会科学は全て経済学に還元されるという考えすらある。

 これは間違っている。何が生物で、何が非生物かは、物理学では決めることができない(注)。生物学は独自の原理と方法を持ち、それを物理学に還元することはできない。地質学や生態学、複雑系と呼ばれる諸分野に属する多くの学問領域も物理学に還元できない。しかし、物理学が統制的な分野であることは間違いない。どの分野でも、物理学の法則に反することはできない。エネルギー、運動量、角運動量、電荷の保存則、相対性原理、量子論、熱力学などに反する理論は生物学、地質学など自然科学のあらゆる分野で不適切な理論として排除される(近似的に妥当する理論として便宜的に使用される場合はある)。それゆえ、拘束を与えるという意味では、物理学は自然科学の基礎と言えなくもない。しかし、物理学から他の学問を導くことは不可能で、物理学に還元できないことは言うまでもなく、また基礎と言うのも物理学を過大視している。
(注)だからこそ、「人の死」の定義が社会的・倫理的問題となる。

 経済学はどうだろう。経済学の影響力は大きく、また社会科学の中で最も進んだ体系と方法を持つ学問であることは間違いない。だが、こちらは、自然科学における物理学以上に、基礎には程遠い。寧ろ社会学など他の学問領域が経済学の基礎だと考えることもできる。さらには、(今ではこのような極端な考えは少数派だが)物理主義者など、経済学は物理学など自然科学に基礎づけられるべきだと考える者もいる。いずれにしろ、経済学が社会科学の基礎と考えるのは無理がある。経済学の様々な理論、均衡理論や比較優位の原則などは、社会構造とそこでの人間の行動パターンに依存しており、現代経済学が基礎的と考える諸原理は、一定の条件(近代以降の市場経済)のみで成り立つものであり、歴史的、地域的差異を超えて普遍的に成立するものではない。たとえば、世界で最も読者が多いと評価されるマンキューの経済学の教科書には、経済学の基礎原理として10個の命題が掲げられているが、いずれも、近代以降の市場経済社会において初めて成立する原理であり普遍的なものとは言えない。実際、その原理が成り立たない社会を容易に想像することができ、かつ、現実にも、それらが成立しない社会が存在するし、近代以前は普通に存在した。マルクスは経済学を基礎だと考えていたと言われるが、「資本論」を純粋な経済学の著作と考える訳にはいかない。「経済学批判」という副題が示す通り、それは当時の主流であった古典派経済学批判を通じて、資本主義的な経済学(それはケインズ革命を経て現代経済学へと繋がる)を徹底的に批判することに主眼が置かれていた。そして共産主義革命間近と考えた時期、マルクスは自身の著作が無駄になってしまうと心配したという逸話も残っている(注)。いずれにしろ、経済学は社会科学の重要な領域で、政治学、法学、社会学など他の領域に大きな影響を与えるが、その基礎ではなく、逆に、他の学問(自然科学を含む)の成果に大きく依存する学問であると考える方が正しい。
(注)共産主義が実現すれば、資本主義的経済学は勿論のこと、それを徹底的に批判した資本論も無意味になるとマルクスは考えた。マルクスは、生産力が社会構造を決める最も重要な要件と考え、経済学の研究に精力を注いだが、経済学が全ての社会的問題解明の土台となると考えた訳ではない。あくまでも革命の原動力を経済の領域に見たというに留まると言ってよい。

 さて、理論そのものにおいて、物理学と経済学では大きな違いがある。物理学は精密科学の頂点と言ってよい。理論と現実の一致は驚異的と言ってもよい。一方、経済学の理論の現実的有効性は定性的なものに留まる。また基礎的な原理の有効性と妥当性にも疑問が多い。均衡理論は一物一価を想定しているが、現実には一物一価が成立する市場は存在しない。同じ商品が違う価格で売られ、同種の商品でも製造者やサービス提供者により中身は微妙に異なる。経済学の基礎原理が依って立つ地盤は現実には存在しないし、これからも存在することはない。完全競争が最適資源配分を実現するという経済学の教えは過大評価され、競争至上主義を生みだした。現実は完全競争が存在しえないばかりではなく、それに近い体制を作り出すことすらできない。また、完全競争が必ずしも(経済的領域においてすら)好ましい結果を生み出す訳でもない。

 経済学の基礎原理は、物理学における摩擦のない理論と類似していると言う者がいるが、これは間違っている。厳密に摩擦のない世界は存在しないが、摩擦がほとんどゼロに近い世界(たとえば宇宙空間)は存在するし、それに近い状態を実験室で作り出すこともできる。そういう世界で物理学の理論の正しさが証明される。また摩擦がない理論から摩擦がある世界の理論を合理的な方法で導出することができ、それを現象と比較することで評価することができる。しかし、経済学ではこういうことは不可能だと言わなくてはならない。それを社会現象は実験できないから、社会現象は複雑だからという説明で切り抜けることはできない。社会現象は、自然現象における物理学の基礎原理(量子論、相対論、熱統計力学、エネルギーなど基礎的な物理量の保存則と対称性)のような統制原理を、絶対的な拘束条件として、理論を構築することはできない。それゆえ、社会科学においては、経済学のみならず、どの学問分野も、物理学のような強力な拘束力を持つことはできない。

 社会科学においては、本来、経済学、政治学、法学、社会学、哲学、歴史学、文化人類学、社会心理学などが一体となって理論体系を構成していると考えるべきで、経済学、政治学、社会学などという分類は便宜的なものに過ぎないと言ってよい(注)。経済学は、確かに、経済のグローバル化の進展と共に国境を超えて、人、物、貨幣、情報、技術、文化が流動する時代において、重要な役割を果たす。政治学、法学などが国家という枠組みを前提にして議論を展開するのに対して、経済学はその始まりから国境を超えたものを志向している。だが、それでも、国家の役割は消滅せず、人は国内法に拘束される。人は、経済活動においても、それぞれが属する共同体の規律と行動様式に拘束されながら、行動を決定する。そして、現代世界で最も強力な共同体は依然として国家だ。たとえ、国家が解体される日が来ても、人はグローバル市場に還元されることはなく、自律性を持つ(一定の排他性を有する)共同体の一員として行動する。こういう人間社会の現実を考慮すれば、経済学はそれ独自の基礎的原理と方法を保ちながら、その有効性は限定され、他の学問領域、た政治学、法学、社会学、社会心理学、文化人類学などの成果を取り込むことで初めて実りある学問となる。
(注)自然科学においても、多分に、同じことが言える。但し、物理学と生物学は生命という概念を通じて明確に境界線を形成する。また、人工知能研究やコンピュータサイエンス、情報理論なども、物理学の原理を絶対的な拘束条件としながらも、独自の領域を形成する。工学の各分野も物理学を必須の理論的要件かつ教養としながらも、独自の原理と方法を形成している。一方、社会科学では、このような境界を定める明確な条件はないと考えるべきだろう。

 人は一つの究極原理で全てを説明したがる。確かにそういう都合のよい原理があれば便利には相違ない。しかし、そのような都合のよい学はない。物理学と経済学にそれを期待しても失望に終わる。特に、経済のグローバル化が進展する現在、経済学への期待が否応なく高まっているが、その効力は限られている。経済学を過大評価すると、様々な弊害が生じる。競争原理を導入すれば上手くいくという発想が至る所に蔓延しているが、捗々しくない帰結を生んでいる場合が多い。競争原理の導入で全児童の学力向上を目指したブッシュ政権の教育改革プログラムは(評価すべき面も多々あるようだが)多くの歪を生みだした。一方、マルクス経済学の単純な応用は共産主義を標榜する社会に大きな災いをもたらした。現代経済学でも、マルクス経済学でも、経済学は社会問題を解決するための万能薬ではない。経済学は、社会科学のほんの一分野であることを肝に銘じる必要がある。

 厖大な課題、難題を抱える現代、私たちは、ついつい、全ての問いに適切な解答を与える万能理論を求めたくなる。しかし、その気持ちはよく理解できるが、そのような都合のよい理論は存在しない。あらゆる問題はその問題に則した手法で解決するしかない。それは手間のかかる作業で、しかも人々がその妥当性を巡って大論争になることも多い。だが、それしか道はない。


(H24/3/11記)


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