井出 薫
哲学の根本問題は倫理にある。西洋哲学を代表する著作と目されるプラトンの「国家」は、存在一般や正しい認識を得るための方法(所謂存在論と認識論)を扱っている。しかし「国家」の主題は「正義とは何か?」であり、存在論と認識論はこの問いの答えを得るための手段に過ぎない。アリストテレスの厖大な著作の中でも、際立った存在で、現代でも大きな影響を与えているのは「ニコマコス倫理学」だ。カントの「純粋理性批判」は認識論を中心としているが、「実践理性批判」、「判断力批判」が後に続いたことからも示唆される通り、その土台には倫理がある。哲学の根本問題は、これまでもずっと倫理にあったとみてよい。 個別の学問が進歩した現代、哲学の出る幕はほとんどない。「科学哲学」、「科学論」などという題目で、科学の基礎や方法を吟味すると称する哲学が多数存在するが、現場の学者や技術者、言論人、そして一般市民に与える影響はごく小さい。特に自然科学では皆無と言っても過言ではない。社会科学は哲学思想を引用する機会が多いとは言え、レトリックとして使う場合がほとんどで、哲学なしには議論ができないということはない。 しかし、マックス・ウェーバーが指摘する通り、科学は「何をするべきか」という問いには答えを与えない。かつて、一部の教条的なマルクス主義者はウェーバーを批判して、科学的な認識に基づく実践こそがただ一つの正しい行為だと主張した。しかし、その帰趨はスターリニズムという恐るべき一党独裁であり、思想犯の収容所に象徴される人命軽視、人権蹂躙だった。確かに、科学的認識は、「何をするべきか」を決定するに当たって、重要な手掛かりを与える。しかし、それだけで「何をするべきか」を決定できないし、決定するべきでもない。経済理論は経済政策の選択に大きな役割を果たすが、経済理論だけで政策が決まる訳ではない。物理学はGPSの精度を保障するが、GPSを利用するべきだという帰結はもたらさない。 「何をなすべきか」、個人にとっても、様々な社会的組織(注)にとっても、この問いほど重要な問いはない。人は有限な時間しか生きることができない。そして人生そのものをやり直すことはできない。組織はより長い時間を生きるが、それでも有限であり、やはり、やり直しは利かない。人も社会も1回限りの決断を常に迫られており、それに如何に対処するかが根本的な課題となっている。そして、これに上手く対処する者は善であり、幸福を得る者となる。 (注)本稿では、「社会的組織」とは、家族に始まり、企業、教育機関、宗教団体、そして、それらの多くを包含する国家など様々な階層・規模の共同体を総称するものとする。 それでは、この問いに答える土台は何か。それは社会的なシステムに組み込まれた思想的な伝統だと言ってよい。個人が自分は自由に生き、自由に考えていると思い込んでいても、その思考や行動は常に社会的なシステムに拘束されている。社会的な組織はそれ自体が他の社会的組織と複雑に相互作用をしながら全体としての社会的システムを形成しているから、当然、その思考や活動の様式は社会的システムに拘束される。 哲学とは、この社会的システムとそこに組み込まれた思想的伝統を吟味する学だと考えることができる。それは正に倫理を核とする思想研究となる。そして、そのとき、初めて哲学は現代的な意義を持つ。 (注)ウィトゲンシュタインの「論考」は、倫理は語りえない領域にあり、哲学や科学の研究対象とはなりえないと論じる。そして哲学は無意味であり、解消されるべきだと主張する。しかし、ウィトゲンシュタインの「哲学」とは認識論並びに存在論としての哲学であり、科学と同様に一般的な答えを得る学問と想定されている。つまり、「論考」で批判的に語られる「哲学」とは他の個別科学と並存する学問であり、倫理としての哲学ではない。それゆえ、それが倫理を語ることができないのは当然であり、倫理としての哲学を否定するものではない。 こうして、現代において意義を持つ唯一の哲学は、倫理としての哲学であることが明らかになる。存在論的な考察や認識論的な考察が全く無意味になった訳ではないが、それらは、個別科学の基礎的な分野における(思弁的な色彩を持つ)考察と位置付けることが相応しい。 では、倫理としての哲学とは何だろう。ここでは3つの点を指摘するだけに留める。倫理とは基本的に理論認識ではなく(理論認識の影響を受ける)実践に属する。それゆえ倫理としての哲学においては実践が重要となる。それは客観的な知識を目指す学的営みに留まることはない。次に、倫理は個人に属する領域と社会的な組織に属する領域に分かれる。それゆえ倫理としての哲学も二つの領域に分かれる。組織が個人の集合体を不可欠な要素として含むこと、個人が組織と社会的なシステムの拘束を免れ得ないことから、二つの領域が密接な関係を持つことは間違いない。しかし、それでも、研究対象としては二つの領域はそれぞれ独自の性格を持ち、一定の自律性を持つものとして扱う必要がある。安易に個人として人の倫理と、社会の倫理を同一視することは間違いであり、また、独裁社会に現れている通り、危険極まりない。最後に忘れてはならないことは、哲学が倫理としての哲学である以上、哲学する者が生きる共同体の思想的伝統に強く拘束されていることを自覚することだ。ウィトゲンシュタインは、哲学者は如何なる思想的共同体にも属さないと主張したが、正しいとは言えない。ウィトゲンシュタインという破天荒な哲学者でも、19世紀末から21世紀前半の欧州という時代と地域の雰囲気の中で思考しその影響が色濃く現れている。それゆえ、筆者を含めて現代日本という場に生きる者は、日本という共同体の思想的伝統を視界に入れて哲学する必要がある。半世紀前、丸山真男は日本には自らを歴史的に位置付ける思想的伝統がないと論じたが、それは西洋思想のような性格を有する思想的な伝統がないと指摘したに過ぎない。むしろ、西洋思想をファッション感覚で取り込んでいく日本の思想的伝統が何であるかを徹底的に研究し、その上で、西洋哲学的な手法を援用して思考していくことが必要とされる。先ずは、そのことを自覚することが急務であることを指摘して本稿を終わる。 了 |