☆ 資本主義の行く末 ☆

井出 薫

 リーマンショックから3年が過ぎた。当時、2年か3年で元に戻ると予想したが甘かった。欧州危機が起きて世界経済は混迷の度を深め、国内では震災と原発事故さらには円高が追い打ちを掛けて経済は振るわない。

 それでも資本主義という社会体制が揺らぐことはなかった。マルクス「資本論」が再び注目されるようになったものの、その影響は限られており共産主義運動が復興する兆しはない。将来を予測しても、資本主義が自動的に崩壊する確率は極めて低い。共産主義を標榜する中国も経済では国家資本主義とでも呼べる体制に移行している。だが、その一方で混乱が続く経済、資源・環境問題を見る時、資本主義が永続する見込みは薄い。資本主義の永遠は幻想にすぎず、ただ次の現実的な社会体制を誰ひとりとして構想できていないからそう見えるに過ぎない。では、資本主義の強さ、そして、その限界はどこにあるのだろうか。

 資本主義を前提とする現代経済学では、その経済体制を擁護する議論として、最適資源配分と比較優位の原則がよく引用される。しかし、現実には、完全な自由競争はありえず、一物一価ではなく、個々の企業の商品は完全には同じではなく、最適資源配分は実現されない。更に、最適資源配分は社会的公正を意味しない。パレート最適で貧困の再生産又は拡大が起きることはある。比較優位の原則について言えば、効率の良さは規模に依存し単純な比較優位の原則を現実の国家に当て嵌めることはできない。更に土地の有効利用や安全保障の観点からすれば比較優位の原則の有効性は更に限定される。寧ろ、最適資源配分や比較優位の原則は、独占や閉鎖的な市場の弊害を明らかにするという消極的な意義があると言えよう。

 およそ全ての学問において、抽象化の作業は欠かすことができない。現実を全てありのままに把握することは、自然であれ、社会であれ人間にとっては不可能だ。地震の予測が外れる、事故が起きるなどの現実は学問の限界を示している。しかし、それでも学問的な認識は合理的で有効性は高い。だが学問が合理的で有益であるためには、正しい抽象化を行わないとならない。間違った抽象化は現象の把握に失敗し、その予測に従う行動は失敗に終わる。現代経済学が採用する抽象化は、物理学における真空や相互作用の捨象と異なり、実証性に乏しく信頼に値しない。いくら数学的に洗練されているとしても、現実との対比で有効性が示されない限り理論の妥当性には疑問符がつく。矛盾のない物理理論は無数に作ることができるが、物理現象を適切に説明することができない理論は理論として失格になる。ところが経済学では現実との対比が容易ではなく理論の妥当性が証明できない。そもそも一部の経済学者は数学に熱中して現実的な学としての経済学を放棄しているようにすら見える。経済理論に基づく予測や政策がしばしば失敗したり、社会の混乱を招いたりすることがそれを示している。それでも、ケインズが語るように、経済学や政治学の思想が社会に与える影響は極めて大きい。経済が高度に発達した現代において、(たとえ間違っていたとしても)経済思想や政治思想は人々の行動指針や判断基準として欠かせず、事実、人々の行動を暗黙のうちに支配している。逆に言えば、だからこそ、経済学の理論は(信頼に足るものではないにも拘わらず)一定の範囲で現実的な有効性を持つ。

 従って、こう言えばよいだろう。経済学や経済学と密接な関係にある政治学又は法学は資本主義の優位性を証明していない。しかし、経済学と経済思想は人々の行動に決定的な影響を与え、そのことを通じて(資本主義を批判する者たちにすら)資本主義の優位性というイデオロギーを人々の頭の中に植え付ける。そして、逆に、この資本主義的なイデオロギーを植え付けることで資本主義を安定させる。この循環構造を支える役割を担うのが、正に、現代経済学・経済思想であり、その周辺には政治思想や法思想が配備されている。マルクス主義は依然として強敵ではあるが、それすら産業主義を共有していることから資本主義的な社会体制とイデオロギーに回収することができる。マルクス「資本論」の人気は資本主義再構築の露払い的な役割を果たす。

 しかし、この循環構造を永遠に維持することはできない。なぜなら、ここには現代経済思想を核とするイデオロギーが介在しているからだ。イデオロギーとは「観念的な体系」という意味と、虚偽意識という二重の意味を持つ。虚偽意識であるが故に、如何なるイデオロギーも常に解体され別のイデオロギーへと変化する可能性を排除できない。現実の経済体制が安定している限り、イデオロギーはそう簡単には変化しない。主導権を握っているのはイデオロギーではなく経済体制だからだ。しかし、土台である経済体制が揺らぐ時、イデオロギーが変化し、正のフィードバックにより全体構造を転覆する可能性は否定できない。つまり、資本主義は(そしてマルクス主義も)、イデオロギーという弱点を内蔵している。

 経済体制を微調整しながら、イデオロギーを孕む循環構造を維持することはできる。そして事実資本主義はこれまでそれに成功してきた。その一方でソ連・東欧の共産主義はそれに失敗した。そのことは確かに経済体制としての資本主義の優秀さを示している。それゆえ簡単には資本主義を解体することはできず、そのことが資本主義に代わる体制を容易には構想できない理由となっている。

 それでも、微調整ができない地点へといずれ到達すると予想される。そのとき、イデオロギーが大きく揺らぎ、正のフィードバックが働き社会体制は根本的に変化する。その切っ掛けが何か、そしてその先に何があるのか、まだ分からない。ただ、情報化社会の進展と、資源・環境問題が起爆剤となる可能性は高い。だが、より重要なことは「その先にあるもの」だろう。それが現状では全く見えていない。それが見えない限り、人々は社会を変えることに逡巡するし、変えたときに改善ではなく改悪になる危険性が高い。

 「資本主義の先に在るもの」、それは決して客観的なものとして予め実在している訳ではなく、これから作り出していかなくてはならない。必要なことは発見ではなく発明だ。これは限りなく難しい課題であり、もしかすると人類はまだこの課題に答えを出すことができる地点に達していないのかもしれない。あるいは、もはや先はなく、ただ絶滅という道があるだけという可能性も否定できない。しかし、いずれにしろ、この問題を探究することが21世紀最大の課題であることは間違いないだろう。


(H24/1/30記)


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