☆ コンピュータに小説を書かせる ☆

井出 薫

 チェスでは以前から、コンピュータが人間の世界チャンピョンを凌ぐようになっている。取った駒が使えてチェスよりもずっと複雑な将棋の世界でもコンピュータが名人を凌ぐ日が遠くない。引退棋士とは言え、永世棋聖で名人位に就いた実績もある米長を将棋プログラムが破った。持ち時間が短い勝負だったことが大きいが、それでもコンピュータプログラムが名人クラスに近づいていることが窺える。おそらく10年もしないうちに、羽生や渡辺も勝てない将棋のプログラムが登場しているだろう。囲碁は将棋よりも更に複雑で、潜在的に可能な局面が多く、指し手も長く、最後の牙城だが、それでも四半世紀後にはコンピュータが人間を凌ぐようになると予想されている。

 そもそも、将棋も囲碁も基本的には明確で曖昧さのないアルゴリズムに従うゲームだから、どんなに人間が頑張っても、遥かに高速で計算誤りが少ないコンピュータに太刀打ちできない日が来るのは止むを得ない。ポンコツのオートバイでも、世界最速のボルトよりも速く走れる。人間の知性も身体の一機能なのだから、知的処理に特化した機械=コンピュータが人間を凌ぐことになっても不思議ではない。

 将棋や囲碁で人間がコンピュータに遅れを取るのは止むを得ないが、芸術分野でコンピュータが人間を凌ぐ日が来るとは考えられない。芸術は天才の閃きが必要で、コンピュータを道具として使うことはあっても、コンピュータ自身が素晴らしい芸術を作り出すことなどありえない。多くの者がそう信じている。勿論、それを言えば、チェスや将棋もコンピュータが勝ったというよりも、それを作り出したコンピュータ技術者が棋士に勝ったという方が正しいという意見がある。だが、将棋やチェスの場合は、やはり、人間が機械に負けたという感は否めない。それは勝負だからだ。将棋というゲームを、棋譜を創造する芸術的試みと解釈することもできないではないが、アルゴリズムが明確に決まっているが故に、その創造は計算に等しい。それゆえ、やはりコンピュータに人間が遅れを取ったと認めざるを得ない。しかし芸術は違う。その創造性はアルゴリズムに帰着させることはできない。芸術は単なる計算ではない。そう考える者が圧倒的に多いだろう。

 しかし、全ての芸術がコンピュータで創造できるかどうかは分からないが、コンピュータに小説を書かせることはできると思われる。最初は勿論稚拙なものに留まる。しかし将棋のプログラムが、最初は弱かったがすっかり強くなったように、技術が進歩すれば作家プログラムが人間を感動させる作品を生み出すことができるようになる。少なくとも、人間が書いたものか、コンピュータが書いたものかを判別することができない水準には到達する。すでに詩など短文では、人間の創作か、コンピュータの創作か分からない水準に達している。小説は詩よりも遥かに長く複雑で、作家並みの小説を書くことができるようになるには長い時間を要する。

 出来るならば、筆者が存命の内にぜひ実現してもらいたいと思う。小説の主題、登場人物、粗筋、使用言語を指定すれば、後はコンピュータが勝手に小説を書いてくれるとしたら、これほど便利なことはない。かつて小説家を志したこともあったが、才能がないので諦めた。しかし作家コンピュータがあれば気のきいた小説の一つや二つは書くことができる。それを賞の応募に使うのは反則だろうが、自分のホームページで公開するくらいならば許される。そうなれば楽しい時代になる。誰もが文豪だ。特に老後の楽しみはこれに優るものはない。

 しかし、コンピュータに小説を書かせるなどと言うと、多くの者が反発する。先にも述べたが、芸術こそは人間の特権的な場所であり、単なる計算をする機械、アルゴリズムに従うだけの機械に、小説など書ける訳がないと多くの者は信じたいからだ。さらに小説だけならばまだ許せるが、他の芸術、音楽や絵画、彫刻、映像、建築など全てがコンピュータの領域になったらどうなるのか。そのときには、数学や自然科学の難問も人間ではなくコンピュータが解くようになっているに違いない。だが、そんなことになったら、人間はどこにその存在意義を求めればよいのか。コンピュータは誠実で戦争などはしないし、生命体を故意に殺したり傷付けたりはしない。どのような資源配分、富の配分をすれば、人々の満足度を最大化し、かつ、正義の観念に合致するかも人間ではなくコンピュータが計算した方が正しい答えが出る。そうなれば、この世界は人間ではなく、コンピュータが支配した方がよいということになる。人間にとって、コンピュータが指示する通りに行動することが、最善の選択となる。しかし、これは悪夢ではないか。そんなことはありえないし、あってはならないと多くの者が主張する。

 勿論、そんな時代がすぐに来る訳ではない。作家コンピュータを使える日は近いうちに来るかもしれないが、この世のあらゆる難題に人間よりも的確な答えを出せるコンピュータなど、遠い未来の話しになる。だが、問題は、それが不可能ではないということだ。今は夢物語でも技術が進歩していけば、いつか、そういう日が遣ってくる。そしてそれは私たちが信じているほど遠い未来ではない。では、その日が来た時、私たちはどのように考え振舞えばよいのだろうか。答えを出すことは容易ではない。

 しかし、答えを出すことが難しいからこそ、作家コンピュータをすぐにでも実現して欲しい。理由は、作家コンピュータの登場が、これまで考えないで済ませてきた難問(人間とコンピュータの関係をどのように考えるべきか)を真摯に考える縁になるからだ。「人とコンピュータはどこが違い、どこまで同じなのか」、「人の創造的行為(学問、芸術、ゲームなど)をコンピュータが人間以上に巧みにできるような時代が到来した時に、人間社会はどうなるのか、どう在るべきなのか」、今のところ、こういう難題には答えがない。答えがないと言うよりも誰も真剣に考えていない。確かに、これはいささか気味の悪い問題であり、「そこまで技術が進歩することはないから、考える必要はない」で済ませたくなる。だが、すでに、私たちの生活と産業活動の隅々までコンピュータと情報通信ネットワークが浸透し、ロボットが色々な場所で活躍する時代に至っている。その利便性は計り知れず、後戻りはできない。技術的に可能だということと、実行するかどうかは別のことだ。しかし、これほど便利なものが技術的に可能になったときに、実行しないはずがない。直接的に環境に悪影響がなくソフトの問題だからコストもさほど掛からない。実行しないのは愚かな選択になる。だからこそ、私たちは作家コンピュータを早く実現して、その存在の下で、それをどう扱うか研究する必要がある(知的所有権の問題が喫緊の課題になる)。

 芸術や学問、医療、政治経済、法などあらゆる領域でコンピュータが人間を凌ぐ日が来る。それはまだずっと先のことだとしても、すでにその日は私たちの視界に入ってきている。作家コンピュータを手掛かりにして、その日のための研究を開始すべき時代に差し掛かっているのだ。


(H24/1/10記)


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