☆ 言葉、動物の知性 ☆

井出 薫

 犬は主人がドアの向こうに居ると信じることはできるが、明後日も主人が帰ってくると信じることはできない。ウィトゲンシュタインはこう記している。この考えは正しいだろうか。

 「期待する」ことは言葉を理解する者だけに許された特権だ。人の言葉を知らない、それゆえ「期待する」あるいは「予測する」という言葉を知らない犬には明後日主人が帰宅することを期待したり予測したりすることはできない。しかし、言葉を知らないということと、それができないということは違うと批判する者がいる。「痛い」という言葉を知らないからと言って、痛みを感じない訳ではない。痛みを「痛い」と表現できないに過ぎない。だから「期待する」あるいは「予測する」という言葉を知らないからと言って、明後日主人が帰ってくることを期待するあるいは予測することができないとは言えない。これが批判者の指摘だ。確かに尤もらしい反論で、多くの者はウィトゲンシュタインよりも批判者に軍配を上げる。

 しかし、ウィトゲンシュタインが正しいと思う。痛みは主観的だが、生理学的な反応に基づくものであり、言葉の理解に拘わらず存在すると言うことができる。しかし期待や予測は、生理学的な基盤の上に成立するものではなく、言葉を共有する共同体で承認されて初めて成立するものであるから、犬に期待や予測を帰属させることは妥当ではない。擬人法を用い、犬が明後日の出来事を期待している場面を想像することはできるが、実際に犬が期待していることを承認することはできない。犬も、承認してもらっても嬉しくも何ともない。承認されたことの意味が理解できないからだ。ただ嬉しくて尾っぽを振ることはあっても、自分の期待が理解されたと知ったわけではない。お手ができて褒められたのと変わらない。

 こうして、人間と異なり、高度な言語を使用することができない動物の知的能力は極めて限られたものとなる。犬よりも高度な頭脳を持つとされる類人猿やイルカなどでも、その知的能力はその場の対応や感覚的な記憶に基づく危険予知などに限られる。知性は人間のように複雑で無限とも言える生成能力を持つ言葉を有することで初めて成立する。

 しかし、読者は、この議論にはどこか承服しかねるものがあると感じるだろう。ウィトゲンシュタイン自身がそうだった。それは、知性とは何かという根本問題が未解決のまま残っているからだ。動物に知性を帰属させることができるかどうかは人間を理解する上で極めて重要な論点になる。ウィトゲンシュタインの議論を参考に、大いに知性を働かせてみては如何だろう。


(H23/12/17記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.