☆ 意識を可能とするもの ☆

井出 薫

 意識があるから哲学があり、生の苦しみがある。しかし、そもそも「意識」とは何だろうか。意識ほど不可解な存在はない。古今東西、最高の賢者たちがその謎を解明しようと挑戦したが依然として謎のままに留まっている。現代では脳科学や人工知能などが探究の最前線に加わり科学的、実証的な手法で謎に挑んでいるが、それでも脳の働きや論理について幾らかの前進はあったが、生理学的な理解に留まり、人という存在にとって最も親しいものである意識が解明される兆しはない。

 意識には幾つかの水準がある。最初の段階は、覚醒しているだけという水準で、まだ意識はまどろみの中にある。これは「ただ意識はある」という段階で、本人は後からそのときの記憶がないかもしれない。次の水準は知覚の段階だ。私は書類に目を通している。書いてあることは理解できる。そして全てではないが書かれた内容は覚えているし、内容がよく理解できなかったとしても目を通したことは覚えている。ただこの段階では、まだ「私」の「存在」ははっきりと認識されていない。最高の水準は、ここにある「私」を認識する段階だ。この「私」とは私の身体や知覚だけではなく、「私」を認識する意識そのものも含む。それゆえ、この段階の意識は自己意識とも呼ばれ、また自分が自分を参照するという意味で、自己言及の最も原初的な形態であり、ここから、様々な哲学的又は数学的なパラドックスが現れる。哲学が登場し、様々な課題が登場するのは、自己意識の段階であり、それゆえ哲学においては時には意識とは常に自己意識であるという宣言がなされることもある。

 この中で、最も難しいのが、知覚の段階から自己意識の段階への飛躍を理解することだ。これは如何にして可能となるのだろうか。知覚の中で、私は私の身体を知覚する。机、机の上の文書、文書の文字、それらとともに、私は、私の手を知覚する。さらに鏡に向えば全身を知覚することができる。鏡では私の背面や頭部、足の裏など、よく見ることができないが、写真など様々な道具を使うことで全身をくまなく知覚することができる。さらには、皮膚の下も、医療検査器具などを使用することで知覚することができる。検査器具を使わずとも、内臓の諸感覚がおおよその内臓の存在と状態を教えてくれる。こうして、私の身体そのものが私という対象の存在を知覚の対象に付け加える。

 だが、これだけでは完全ではない。私の意識は、私の身体器官(特に目)を使って、私の身体を対象の一つとして知覚したが、私の意識そのものは、私の身体器官が直接認識するものではない。「脳が脳を知覚している」と言うのは間違いで、脳内には脳細胞の複雑な電気的・化学的生理過程が存在するだけで意識の認識など存在しない。デカルトは、世界を身体と精神に分けたが、これは決して不自然な仮定ではない。意識あるいは無意識も含めたより広い意味での精神又は心は、身体には還元されない。自然法則の普遍性、自然一元論(あるいは唯物論)の立場からすれば、意識とは物質の活動の所産に過ぎない。それは正しいかもしれないが、自然一元論(あるいは唯物論)と同義であり意識の説明にはなっていない。私の意識が私の意識を意識しているという構図を理解するには、脳内過程を調べるだけでは十分ではない。脳内過程の探究で分かることは、私の意識が私の意識を意識しているとき、脳はどのような状態になっているのか、その状態はどのようにして生じ、どのようにして消失するのか、そういうことが分かるに過ぎない。それが分かっただけでも大変な発見だが、その脳の状態や過程と、「私(の意識)が私を意識する」という(常識的とも言える)哲学的認識がどうして平行しているのか答えることはできない。そもそも徹底した唯物論の立場からすれば、意識など不要、あるいは幻想に過ぎないということになる。事実、意識や心又は精神は幻想に過ぎないという見解もある。だが言うまでもなく、意識は幻想などではなく、これ以上にリアルな存在は他にはない。意識があるから、苦しみや楽しみがあり、思考し世界認識がある。

 それゆえ、知覚から自己意識への飛躍は、無限の距離の跳躍になる。無限の距離という表現が不可能性を示唆するというのであれば、質的な差異があると言い換えてもよい。いずれにしろ、それは自然科学で解明できるものではなく、哲学的な考察を必要とする。ではこの飛躍を可能とするものは何なのか。意識そのものの中にそれを探る者たちがいる。彼または彼女は「現象学者」と呼ばれる。一方、言語の中にそれを探る者がいる。「私の意識の可能性」、「私の意識が私の意識を意識することの可能性」は、「私」とか「意識」とかいう言葉の存在に支えられている。それゆえ言葉の中に、言語体系の中に、あるいは言語ゲームの中に、この飛躍の可能性が潜んでいるという考えが生まれる。彼または彼女はしばしば「言語分析哲学者」などと呼ばれる。さらに両方の立場を援用して議論を進めようとする者たちもおり、「構造主義者」とか「システム論者」、「ポストモダニスト」などと呼ばれることがある。

 だが、いずれの立場も問題の解明に成功していない。意識の中を幾ら探っても、自己意識と言葉が常に所与の前提となっており、飛躍の可能性を探る鍵を手にすることはできない。つまり、現象の外部が常に暗黙のうちに前提されており、自己意識の根源、それを可能とするものを明らかにすることは不可能だと言わなくてはならない。言語分析は、言語というリアルで普遍的な道具を通じて問題に接近するが、言語は意識を持たない機械でも処理可能なものであり、言語分析だけでは、自己意識に接近することはできない。それゆえ、3番目の両方の立場を援用する方法が最もよい方法だということになるが、先の二つの方法がいずれもすぐに、限界に突き当たるために、両方を使ってもさほど先に進むことはできない。その成果は寧ろ「自己意識を解明することは極めて困難だ。いや、おそらく不可能だ。」という否定的な結論に留まる。

 結局こうなると、自己意識は解明すべき謎として扱うのではなく、所与の事実、世界が存在することと同じような所与の事実として扱うべきだという結論に至る。私たちができることは、自己意識を所与として哲学や人間と社会に関する諸学問を展開することと、自己意識の背景にある脳の状態と脳内過程を自然科学的に認識することだけだということになる。意識の謎とその答えは、ただ文学や芸術の中で暗示される。そして学問体系に位置づけられる明確な答えが与えられることはない。

 これは冴えない解答であり、少なくとも科学万能論者は納得しないだろう。意識も科学で解明できる、心の科学は可能だと彼または彼女は主張する。だが、そこには残念ながら錯覚がある。自然科学的探究の領域はあくまでも物質的な世界、つまり脳や神経系、それに影響を与える身体器官や環境に限定されており、意識はその範疇外にある。自然科学は、意識と呼ばれる現象が注目される場所で、そこに在る身体で何が起きているのかを認識するだけなのだ。但し、このことは決して身体と異なる別世界を想定することではない。世界を、身体の世界と精神の世界に分割することは、実は身体と精神(又は意識や心)を同じカテゴリーに帰属させることを意味している。しかし問題の本質は両者が質的に異なることを認識することにある。このことが科学万能論者には認識できない。また哲学者の多くもここで混乱をきたす。

 ここで問題が解決された訳ではない。所与の現実だと悟っても、そこから何をどうすればよいのか全く分かっていない。それが分からなくては、この認識も大したものにはならない。また科学はどうしても「意識」という存在を意識せざるを得ない。それが科学の対象外であると分かっても、それが研究の手掛かりである以上、それに常に興味を持ち続けることになる。その結果、人々は同じ誤解を繰り返すことになる。本稿はあくまでも出発点を示唆しただけであり、意識の謎は依然として全く解明されない難題として残っている。


(H23/12/4記)


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