☆ 法と規則、資本の論理 ☆

井出 薫

 法哲学の根本問題は何か。道徳と法の関係はどうなっているのか。悪法も法と言えるのか。悪法に従う必要はあるのか。こういう問いを挙げることができる。しかし、真の意味で根本問題と言えるのは「法とは何か」という問いだ。この問いには「なぜ、人は法に従わなくてはならないのか」という問いも含まれる。多くの者が従ってこそ法だからだ。

 この根本問題に対する答えは、大きく分けて2つある。自然法の答えと、実定法あるいは法実証主義の答えの二つだ。自然法の答えは、自然法則が自然運動を説明する客観的な法則であるのと同様に、法は世界の中に人倫の基礎原理として客観的に内在していると考える。自然法においては、法は人間が作り出すものではなく、予め存在する客観的な法を人間が発見するということになる。一方、法実証主義あるいは実定法主義では、法はあくまでも社会の中で人が作り出すものとみなされる。前者では法は発見されるもの、後者では発明されるものだと言ってよい。

 現代において、純粋な自然法主義を取る者はほとんどいない。法と自然法則は全く異質なもので、人は自然法則に逆らうことはできないが、法に違反することは幾らでもできる。また私有財産制度を不可侵の自然権として主張する者もいれば、搾取の源泉だと反論する者もいる。法が自然に内在するものであれば、財産権に関するこの論争はいずれ実証的に解決するはずだが、一向に決着がつく気配はない。財産権に関する論争は時代の雰囲気を反映しながら永遠に継続する。

 尤も、そうは言っても、自然法思想が全く無意味だという訳ではない。人間には生物種として普遍的な自然がある。また、共同体を形成して初めて生きていくことができるという性質から、自然と、幾つかの普遍的な法が妥当する。殺人の忌避、共同体の決めごとの遵守など、それなしには個体は生き延びることが出来ず、共同体は維持できない。それゆえ進化論的な観点から法を説明し、それを自然法として捉えることができない訳ではない。しかし、それはあくまでも一つの解釈に過ぎず、必然的なものではない。人間の身体的な特徴や群れの行動様式は進化論的な観点から説明がつくし、事実それは合理的な説明になる。しかし、社会的な現象である法にそれを適用することはできず、たとえば財産権に関する激しい論争を説明することはできない。進化論的な法の説明は、疑似科学に過ぎない。現代において、合理的な法理論は、法実証主義(実定法主義)あるいはその様々な変種だけだと言ってよい。自然法は作業仮説、あるいは、理念や実践の指針として役立つこともあるが、あくまでも補助的な役割でしかない。

 しかし、法実証主義にも様々な変種があり、様々な立場がある。また、そのこと自身が、法が実定法であり自然法ではないことを示しているとも言える。法が自然法ならば、自然法則のように多様な見解は一つに収斂するはずだからだ。しかし、法実証主義には共通する点がある。それは法とは人間が社会において作り出す規則あるいは規範の一種だということだ。20世紀を代表し、共に法実証主義という枠組みで語られるケルゼンとハートは多く点で見解を異にするが、それでも法が規則あるいは規範の集合体であると考える点では一致している。ただ、ケルゼンは、法という規則の集合体を、根本規範を出発点に根本規範で定められた手続きに従い創造・執行されていく体系として捉え、その本質は強制秩序であると考えたのに対して、ハートは強制的な一次ルールと、一次ルールを承認、変更、裁定する二次ルール(メタルール)の結合体として法を捉えた点で大きな開きがある。その背景には、ケルゼンが事実(存在)と規範(当為)とを峻別し、法学の対象は専ら規範の領域であるとする新カント学派的な思想の下に理論を展開しているのに対して、ハートは、イギリス経験論の流れの中で言語分析哲学的な手法を援用し、事実としての法を分析しているという違いがある。この哲学的傾向の違いが、彼らの理論の差異に反映されている。しかし、この二人に限らず、法実証主義並びにそれに近い立場を取れば、必ず行きつく結論がある。それは、法は規則あるいは規範の集積体だということだ(積み重ねられていくという意味で集合体ではなく集積体という言葉を使用する)。そして規範は強制力の差異を除けば通常規則と呼ばれるものに帰着する。つまり、法体系とは規則の集積体と言ってよい。そして法と密接な関係を持つ道徳体系もまた規則の集積体に帰着する。ただ道徳は、ハートが指摘した通り、意図的に定めたり廃棄したりすることができない−それゆえ物理的な強制の根拠がない−という点で法と異なる。

 このように、法や道徳は規則の集積体として理解することができる。そして、およそ全ての社会的現象が、規則の集積体という観点から理解できることが導かれる。経済活動は法に従うこととは違うが、自然科学的な活動(=自然法則に規定された行動)ではなく、慣習や常識という緩やかで曖昧な規則に従う行動と考える必要がある。政治は法や道徳に近く、文化は経済活動と同様に緩やかで曖昧な規則に従う行為とその産物の集積体と理解することができる。こうして、自然が自然法則として表現されるように、社会は規則の集積体として表現される。それゆえ「法とは何か」という法哲学の根本問題に対しても、法という領域の中だけで「根本問題」として論究するのではなく、社会現象全体の一案件つまり規則の集積体の部分系として法を捉え、規則の集積体の分析を通じて、この根本問題に迫る方が、より実り多い成果が望める。

 哲学や社会科学的諸学問は、全て、規則の集積体を分析する学問と考えることができる。上で述べたとおり、法とは何かという法哲学の根本問題は、規則の集積体としての社会を解明することを通じて、初めて本当の意味で解決される。つまり、法哲学は、独自の学の領域を形成するとは言え、その根本問題は、法哲学の対象となる法という規則の集積体には還元されない様々な規則の集積体との相互関係を通じて初めて真に解明されるのであり、他の領域を完全に捨象して問題を解明することはできない。経済学、政治学、社会学、文化に関わる諸学問などは、法に関する学問と共通する領域は在っても、法と称される規則の集積体(の部分系)に還元されることはない。それらはそれぞれ独自の領域=規則の集積体の部分系を有する。伝統的マルクス主義者は法を上部構造の一領域として捉え、それゆえ法は生産力と生産関係を解明する経済学を基礎として考察する必要があると論じる。広義の法哲学(法学一般)は経済学により基礎づけられる。このマルクス主義者たちの議論は単純すぎるが、それでも、法に関する諸学が、ただ、その独自の領域に留まっているだけでは、根本問題を解決できないことを正しく示唆している。法学は、経済学や政治学、その他多くの学問と交錯する場で展開されるとき初めて実り多いものとなる。

 だが、ここで哲学を含む全学問に共通する根本的な問いに突き当たる。法学の対象となる法をその一部として含む規則の集積体とは、本質的に如何なるものなのかという問題だ。経済学には経済学の対象があり、社会学には社会学の対象がある。政治学には政治学の対象がある。こうして様々な対象が存在するとき、全体としての規則の集積体とは何なのか。私たちはそれにどのようにすれば接近することができるのか。これは途轍もない難問と言わなくてはならない。

 個別科学はそれぞれ(相互に重なり合う部分があるとは言え)個別の領域を有しているから、全体を見渡すことはできない。全体を見渡すには、個別の学を超えた全体を展望する新しい学を創設するか、あるいは全体の基礎となる領域とそれを扱う学を指定する必要がある。

 最初の方法、全体を見通す学問を新たに創造するということはできない。過去には、そして、しばしば現代においても、哲学にその役割が期待される。しかし実証的な研究に乏しく思弁に終始する哲学に全体を見渡す視界を求めることには無理がある。では他に何か全く新しい学の可能性があるのか。「規則の集積体としての社会を分析する学」などと言ってもトートロジーに過ぎない。全体を一望できる天界は人間世界には存在しない。

 それゆえ、私たちは土台となる学を探すことになる。マルクスが、その意味で初めてその基礎を明らかにした。マルクスは、生産力を土台とし同時にそれを統制する生産関係を分析する学=経済学を、その栄えある地位に指名した。経済学こそ、社会を解明する鍵になる。自然科学が全て物理法則で統制され、基礎として物理学(と物理学の欠かせない道具であり、又、本質でもある数学)が存在するように、社会科学・歴史科学全体において、経済学が物理学の地位を担う。

 だが、自然界で普遍的に成立する物理法則のような強力な道具は経済学にはない。価格の原理も、違反可能な規則に過ぎず、社会全体を統制するものではない。経済学の優位性はマルクスだけではなく資本主義を擁護する現代経済学にも及んでいるが、その優位性の根拠は、「人は欲張りであり」、「金銭的インセンティブに良く反応する」という通俗的な人間理解でしかない。この通説は真実の一面を捉えているが、人間と社会の全てではなく、本質でもない。人間と社会の本質は規則の集積体の複雑な全体系の中に潜んでいる。それゆえ経済学の対象となる規則の集積体(の部分系)だけでは社会の本質を発見(又は発明)することはできない。

 それぞれの時代と地域における規則の集積体を特徴づけ、その全体の動きを統制するような役割を担う部分系を見つけ出すこと、これが問題を解く鍵になる。現代という時代におけるそれは何であろうか。現代社会を資本主義と名付けたのは、資本主義の敵マルクスだ。だが資本主義を擁護する者ですら、(使うことは少ないとは言え)資本主義という言葉を否定することなく使用している。確かに、マルクスの資本概念と現代経済学の資本概念は異なる。だが資本が利益を生む源泉という認識は共通している。そして資本の活用と資本生産こそが、現代社会において、人々を駆り立てる最大の要因であることは間違いない。

 こうして、現代社会において、その規則の集積体の中核は「資本の論理」であることが明らかになる。そして基礎となる学問はそれゆえ「資本の論理分析」となる。それはマルクス主義者や現代経済学者が思念する経済学に近いものがある。だが経済学と一致するものではない。かと言って、経済学と全く一線を画するものでもない。ただ「資本の論理」なのだ。それはすでに出来上がった輪郭が存在する訳ではない。経済学を手掛かりにし、さらには法哲学・法社会学、政治学、社会学、社会的心理学などを援用しながら、これから探究しなくてはならない領域なのだ。そして、その探究は、その探究自身が規則の創出、変更、廃棄、解釈という過程を辿る。そのために、この探究自身が資本の論理という対象を作り出し、逆にそれに拘束されるという面がある。ヘーゲル的とも言える、この創造的探究こそが、私たちを待ちうける第一の難関になる。だが、ここにこそ、そして、ここにのみ、私たちが法哲学の根本問題から出発して到達した社会と人間の総合的な理解へと旅立つための出発点がある。


(H23/11/27記)


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