井出 薫
歳の所為か度忘れが酷くなった。それでも大切なことは覚えているし、友人や同僚の顔の見分けが付かなくなることもない。ただときどき名前を度忘れして気まずい思いをすることがある。 そもそも、私の記憶が真実であるかどうか、私はどうやって確かめることができるだろう。朝出社する。同僚に挨拶をしてもみな怪訝そうな顔をしている。誰も私のことを知らないという。同僚が一緒になって自分をからかっていると思う。ところが観察していると、誰一人として嘘を吐いているようには見えない。部屋を出て馴染みの焼き肉屋に行く。店長とは仲良しだ。ところが店長も私を知らないと言う。不安に駆られ帰宅し家族に話しかける。ところがあろうことか家族も私を知らないと言う。 ドラマに良くあるシーンだが、こんな状況に遭遇したら、何を考えるだろう。皆が共謀して私を騙している。私の記憶は正しく、周囲が嘘を吐いていると信じ続けることが出来るだろうか。ほとんどの者が困惑し自信喪失するに違いない。高齢者なら認知症が脳裏に浮かぶ。若者はどうだろう。SF好きなら異次元世界に落ち込んだと思う者がいるだろう。いずれにしろ、どんな世代でも、どんなに賢い者でも、周囲が自分を無視し続ければ心が動揺し記憶が疑わしくなる。 しかし、周囲がいつも通りだとしても、同じように自分の記憶を疑うことができる。周囲は嘘を吐いて自分のことなど全く知らないのに調子を合わせていると考えることもできる。ただ記憶を疑うという発想が湧かないだけなのだ。 異次元世界、周囲が共謀して嘘を吐いている世界、こういった舞台装置が小説や脚本に設定されてきた。しかし小説では常に私又は語り手の記憶は確かであることが前提されている。しかしこの前提は実は疑わしい。これはデカルト的な非現実な懐疑ではない。私たちは病や薬物が原因で記憶が異常になることを知っている。では、今ここに居る私はそうではないことをどうやって知るのか。たとえ異常でも本人が気付かないということは十分にありえる。いや、寧ろ、その方が普通だ。だから自分が正常であることを知る方法はない。 記憶の確かさは、他人の承認を得ることで初めて成立する。記憶とは私的な存在ではなく共同体的な存在と言えよう。しかし、その一方で、私の記憶が私だけにアクセス可能であることを私は知っている。他人は私の言動(又は、脳の生理学的活動)を通じて私が何を記憶しているかを推量することができるだけで、直接的に知ることは出来ない。その意味では、私の記憶の確実性は共同体ではなく私自身に依存する。 こうして記憶は共同体的な存在であり同時に私的な存在となる。また、どちらでもないと言うこともできる。どちらの見方も一面的で真理は中間に在ると言うこともできる。いずれにしろ、私たちの思いに反して記憶の確かさの根拠は薄い。記憶は人に与えられた最大の呪いだと皮肉を言う者もいる。根拠が薄いからこそ、私たちは記憶を問い続ける。しかし、私がそれを問い続けてきたという記憶そのものが誤っていることもありえる。ここに記憶固有の困難が出現している。全てを信じるか、全てを疑うか、いずれかしかない。普段はほとんどの者が問題なく記憶を信じている。疑問が湧くのは病気になったときくらいだ。それでも記憶は私を欺く。そこに一番の問題が潜んでいる。 了 |