井出 薫
マルクスは現代でも価値ある思想家だと思っている。しかし、マルクスを今に活かすためには、まずマルクスと資本論の誤りと限界を知る必要がある。そして、その上で、私たちは現代的な視点からその意義を汲みだす作業をしなくてはならない。 マルクスの労働価値説は正しくない。労働価値説が正しくないとなると、マルクス資本論の根幹であり、資本論全体系の土台である剰余価値理論が成立しなくなる。だから伝統的なマルクス主義者は労働価値説を捨てることができない。柔軟なマルクス主義者も労働価値説がそのままでは成り立たないことに同意するが、それでもマルクスの見方は概ね正しいと主張する。近年マルクスと資本論の解説書と称する本が多数出版されているが、やはり、この二つのどちらの立場をとり、基本的にマルクス資本論をそのまま肯定している。しかし、それではマルクスが現代に蘇ることはない。 マルクス資本論の根幹である剰余価値理論には二種類ある。絶対的剰余価値生産と相対的剰余価値生産の二つだ。マルクスは労働価値説に基づき、労働者が8時間労働すると、たとえば4時間は必要労働時間(労働者が生活していくために必要な労働)で、残りの4時間は剰余労働つまり資本家のための労働時間だと論じる(労働価値説により、もしそうでないとすると資本家が手にする利潤は生じないことになる)。この4時間の労働時間は生産された商品の剰余価値となり、それが流通過程を介して産業資本家の利潤、金融資本家の利子、大土地所有者の地代へと結実する。絶対的剰余価値生産とは、労働者の必要労働時間を超えて労働者を働かせることで得られる剰余価値を意味する。この観点からすると、労働者を長く働かせれば働かせるほど利潤・利子・地代に化ける剰余価値は大きくなる。だから資本家は労働者を可能な限り長時間労働させるか、労働強化で単位時間当たりの労働密度を増やそうとする。たとえば8時間労働を12時間労働にすれば剰余価値は4時間から8時間へと倍増する。正に、女工哀史、蟹工船の世界だ。事実そういう時代があった。 一方、相対的剰余価値理論は必要労働時間を減らすことで剰余価値が生まれることを示す。たとえば技術革新や生産システムの改革でそれまで8時間掛かっていた作業を4時間に短縮できるようになったとする。すると労働者の8時間労働の内、必要労働は2時間に圧縮されることになる。その結果、剰余価値は4時間から6時間に増える。 労働価値説が正しくないとなると絶対的剰余価値生産理論にせよ、相対的剰余価値生産理論にせよ、そのままで成り立たない。しかし、相対的剰余価値生産理論は定量的には正確ではないとしても、資本主義の本質的な性格を露わにするという点で極めて有益な理論だ。ケインズと並び20世紀を代表する経済学者と称されるシュムペータの経済発展の理論はマルクスの相対的剰余価値生産の理論の改造版と見ることができる。イノベーションが(労賃を含む)費用を上回る価値を生み、それが利潤や利子をもたらす。これがシュムペータの主張だが、相対的剰余価値生産に極めて近いことは容易に見て取れる。但し、シュムペータは絶対的剰余価値生産を否定し、イノベーションのない単純再生産の経済はいずれ利潤が生まれなくなり崩壊すると考えた。ここにマルクスとの決定的な違いがある。マルクスの理論では単純再生産でも絶対的剰余価値は生まれ利潤が得られることになるが、シュムペータは(長期的には)不可能だと言っているからだ。ここでシュムペータの議論にこれ以上立ち入ることはしない。シュムペータはマルクス同様、資本主義の崩壊を予言したが、それはイノベーションの枯渇によるもので、生産力発展の阻害要因となり崩壊すると言うマルクスとは考え方が全く異なる。そして、資本主義の限界を指摘するのであれば、シュムペータよりもマルクスの立場の方が遥かに有力だ。 相対的剰余価値生産の理論に戻る。技術革新などで必要労働を4時間から2時間に短縮することができれば、8時間労働のままで6時間に剰余価値を増やすことができる。そうなると、たとえ労働時間を8時間から7時間に短縮しても前よりは剰余価値が大きくなる。また、労働時間は据え置いて、労働者の賃金を3時間相当額に増やすことも出来る。それでも剰余労働は4時間から5時間に増えている。特に有力なのが労賃を上げるという後者の方法だ。労働者の生活はそれにより改善される。絶対的剰余価値生産の世界では労働者はひたすら利潤を増やすために長時間労働を強いられるが、相対的剰余価値生産の世界では、労働者は労働時間の短縮や労賃の値上げを勝ち取ることが可能となっている。絶対的剰余価値労働の世界では労働者は常に貧しくその日暮らしの生活に終始する。だから労働者の市場での購買力は小さい。つまりそれは市場での需要が小さいことを意味する。すると商品の売れ行きは限られ、景気がよいときの過剰生産で商品がだぶつき信用不安の連鎖で簡単に恐慌が起きてしまう。だが、相対的剰余価値生産の世界では労賃を上げることで市場の需要を拡大することができる。労賃の値上げはその分費用の増大、利潤の圧縮に繋がるが、一方で商品の売り上げを伸ばすことで利潤の拡大に繋がる。さらに技術革新の進展で多くの労働者は単純労働から複雑労働へと移行する(注)。つまり資本主義の発展とともに、高度な技能と知識を持つ労働者を手に入れることが資本家にとって利潤獲得の必須条件になる。そうなると、個々の資本家はいざ知らず、資本家階級全体では、高い賃金と快適な労働環境、優れた福利厚生を提供することで労働市場から有能な労働者を集めようとする動機づけが強まる。しかも、資本主義の発展とともに、私企業は一人の資本家の事業体ではなく、株式会社という形態に変化する。そうなれば、経営陣はより広い視野に立って何が得策かが見えるようになる。労働者を過酷な環境でこき使うよりは、寧ろ労働者によい環境を与えることが利益になることが見えてくる。 (注)マルクスは、技術革新、機械の導入の進展が労働者の労働を複雑労働から単純労働へと変容させ、労働者の労働条件を益々悪化させると考えた。しかし、これは理論的にも現実的にも明確に間違っている。若きマルクスの時代、19世紀前半にはそういう傾向があったのは事実だ。しかし、それは過渡的現象に過ぎず、科学技術の進歩、機械の導入の進展は、一般的に労働者に高い技能を求めることになる。機械は所詮機械で人間の制御を不可欠とする。だから当然労働者の労働は高度な技術や知識を要するものになる。但し、コンピュータやロボットの技術革新が進展すると、やがて高度な知識や技能を有する労働者が不要になるかもしれない。だがそのときには、そもそも労働者が不要になり、誰もが芸術家や科学者など文化人になっているだろう。 実に、これがマルクス資本論の相対的剰余価値理論に焦点を絞ったときに出てくる帰結なのだ。資本家全員が愚かではない限り、いつかは必ず労働者を苦しめよりも、遣り甲斐のある仕事と環境を与えてその能力を発揮させる方が得策であり競争相手に打ち勝つために不可欠であることに気が付く。勿論、景気が悪化すれば常に労賃・労働環境の引き下げ圧力が働くことは事実だ。それは現代日本の非正規労働の広がり派遣社員切りなどからもうかがえる。それでも、相対的剰余価値に着目すれば、マルクス自身の解釈には反するが、平均的に見れば、労働者の労働環境と生活環境は資本主義の発展とともに改善されていくという帰結が得られる。逆に言えば、そうならなければ、資本主義の発展はない。労働者が貧しく劣悪な環境に留まれば市場は縮小し資本主義は遥か昔にあっさりと崩壊していた。そして、実は、マルクス自身が相対的剰余価値生産こそが資本主義発展の鍵であることを理解していた。 マルクスは、それでも、彼の共産主義革命思想のために、どうしても労働者の労働環境が資本主義の下でも改善されていくということを認めることができなかった。だから、相対的剰余価値生産の本質的重要性を認めながらも、絶対的剰余価値生産こそが剰余価値生産の典型だと最後まで考えた。そして相対的剰余価値生産が労働者の労働環境・生活環境の改善に繋がることを認めず、ひたすら機械の導入による失業者の増大だけを強調した。その結果、相対的剰余価値生産の理論からも労働者の窮乏化が導かれてしまうことになる。だが何もかもあべこべなのだ。 マルクス「資本論」は、マルクスの意図に反して、相対的剰余価値生産の優位性を示し、その帰結として労働者の生活の改善と資本の拡大(利潤や利子の拡大による生産規模の拡大、それによる経済発展)が両立することを示している。そして、事実、企業の株式会社化とも並行して、現実にそのとおりのことが実現した。現代の労働者は、たとえ派遣切りにあったハローワークで職探しをしなくならなくなっても、社会保障制度の充実で、蟹工船や女工哀史の時代の女工や蟹工船の労働者よりは良い生活ができる。そして、マルクス自身が気付かなかったにも拘わらず、そうなることを資本論の論理が正しく予言していた。 この事実を理解してこそ、マルクスは現代に蘇る。マルクスは、ある意味で皮肉なことだが、本人の理解や意図に反して、資本論において、現代の豊かになった労働者が暮らす資本主義を予見していた。逆に、その結果、資本論でマルクスが予言した労働者の窮乏化と共産主義革命は実現していない。しかし、そもそも労働者の窮乏化と共産主義革命は資本論の論理からは帰結しない。それは、あくまでの共産主義革命家マルクスの政治的展望に過ぎなかった。 しかし、マルクスを現代資本主義の肯定者と再解釈したのでは何ら学ぶべきものがないではないか、という反論があろう。そのとおりだ。だがもう一度相対的剰余価値に戻ってみよう。それは資本主義の下でも、労働者の生活は良くなり、同時に資本主義も発展できることを示している。しかし、その一方で、資本主義がある致命的な欠陥を持つことを示している。実は相対的剰余価値生産は、ある企業が他の企業に先駆けて技術革新など生産性の向上に成功している間だけ通用する。つまり競争上の優位性を保持している期間だけ大きな利潤を得ることができる。もし競争相手が同じ技術を手に入れると相対的剰余価値は消える。最初は8時間労働のうち、4時間が必要労働で4時間が剰余労働だった。しかし、ある企業が画期的な生産技術を手に入れることで、この企業だけは必要労働を2時間に圧縮した上で、8時間労働を必要とする商品を他社の2倍生みだすことができるようになった。だから、唯一6時間労働分の剰余価値を手にすることができた。しかし競争相手も同じ技術を手に入れれば、4時間で商品が生産できることになるから、6時間の剰余労働を手に入れることはもはや不可能になる。手に入るのは2時間の剰余労働でしかない。それでも商品を倍生産することができるようになっているので、前と同じだけの剰余価値(4時間分)を得ることはできる。しかし、他の企業がさらにより優れた技術を導入し、より生産性を上げて必要労働を圧縮したら、今度は遅れた企業は苦しくなる。競争下、先進企業が商品の売り上げを伸ばすために値下げをしてくる可能性が高いからだ。そうなると、かつての4時間の剰余価値も得られなくなる。 つまり、資本主義では、企業は常に革新(シュムペータ流に言えばイノベーション)を迫られる。遅れをとると一挙に脱落する危機が迫ってくる。こうして、資本家、経営者、さらには労働条件の改善で企業との一体感が増している労働者たちは、常時、強迫障害のように、革新へと駆り立てられる。「常に新しくあれ!」が資本主義のモットーとなる。アップル社の故ジョブズは正しく資本主義の旗手だった。 しかし革新と言えば聞こえが良いが、その中には人間の堕落や自然破壊に繋がる物が沢山含まれている。私たちの良識は社会や個人、自然を荒廃に帰すような商品の生産に法的規制や行政の介入、市民運動を通じて一定の歯止めを掛ける。それでも、資本主義システム存続の必然的要請が、変化をもたらし人の気を惹くものであれば何でも良いという風潮を完全に克服することはできない。肥大した複雑怪奇な金融システムとバブル崩壊はその象徴とも言える。こうして、資本主義はいずれ社会と自然と人を荒廃させ隘路に陥る可能性が極めて高い。つまり、資本主義は極めて効率的なシステムだが、健全な社会の発展を約束するものではない。寧ろ、いつかは、共産主義革命で想定されていた規模の抜本的な体制改革が必要となる。 こうして、相対的剰余価値生産こそが、マルクス資本論の根幹をなすことを理解すれば、資本主義の下で、マルクスや伝統的マルクス主義者たちが予想していたよりも遥かに労働者が良い環境で暮らしいる社会が実現されたことの歴史的必然が理解できる。同時に、相対的剰余価値生産は、必要労働時間を圧縮できるものであれば何でもありだという社会的態度を通じて、いずれ有限な地球に暮らす人と社会と自然に荒廃をもらすことが避け難く、それを回避するためには全く新しい社会体制の創出が不可欠であることも示している。このような方向でマルクスとその資本論を再解釈することで、初めてマルクスは真の意味で現代的思想家として再生する。 了 (補足1)ここでの議論は、労働価値説を正しいと想定したときの相対的剰余価値生産理論に基づいているから、正しいとは言えないという反論があろう。確かに、厳密に定量的な議論を展開すれば、ここでの議論は正確ではない。しかし、先にも述べたとおり、定性的には現代社会を捉えるためには極めて有効であることが見て取れるだろう。そして、何よりここで示したかったことは、現代を考えるときに、マルクス資本論をどのような方向で再生させれば、役立つかということだったのだ。そのためには、本稿で述べたような方向こそ最良だと考える。絶対的剰余価値生産に代表される搾取を強調する立場では、マルクスの現代的な意義は得られない。搾取は経済の問題というよりも寧ろ政治や文化の問題だからだ。 (補足2)マルクスは、資本主義は発展の過程で最終的には生産力発展の阻害要因となることで崩壊すると考え、シュムペータはイノベーションの欠乏で崩壊すると論じた。本稿で示した通り、資本主義は崩壊するとすれば、生産力の健全な発展の阻害要因となることで崩壊する。従って、マルクスの思想の方がシュムペータよりも適切だと言える。 |