井出 薫
今年のノーベル物理学賞に、宇宙のインフレーションを発見した米豪の3人の物理学者が選ばれた。 宇宙のインフレーションとは、宇宙が加速的に膨張することを意味している。なぜ、それが画期的な発見なのか。宇宙を支配する力を考えると分かる。 この宇宙は4つの力(相互作用)からできている。重力相互作用、電磁相互作用、強い相互作用(クォーク間の相互作用)、弱い相互作用、この4つだ。このうち強い相互作用と弱い相互作用は素粒子レベルの距離でしか働かない短距離力で宇宙の運動には寄与しない。一方、電磁相互作用と重力相互作用は長距離力で宇宙全体の運動に寄与する。しかし宇宙のほとんどの物体はプラスの電荷とマイナスの電荷を等量持ち、電気的に中性なので電磁相互作用は宇宙全体では大した役割を担っていない。 その結果、宇宙の運動を支配するのは重力相互作用になる。しかもアインシュタインの一般相対論によれば重力は時空の幾何学と密接な関わりを持ち、宇宙の幾何学的構造が重力相互作用の表現になる。 重力相互作用には、電磁相互作用のように逆方向に働く引力と斥力が存在しない。あるのはただ引力だけだ。それゆえ宇宙の物質は、重力相互作用で互いに接近(収縮)していく。収縮すると互いに衝突して熱エネルギーが発生し、それが外部への圧力(重力から見れば斥力)として働くので重力による収縮にブレーキが掛かる。 このように重力相互作用は引力だけからなるので、ビックバンで宇宙が膨張を始めてから、膨張速度は徐々に減速していると推測される。ただ減速の度合いによって、宇宙が閉じている(有限宇宙)か開いている(無限宇宙)かが決まると言われていた。 (注)宇宙の膨張とは物質の膨張ではなく、空間の膨張を意味するので、この議論は厳密に言えば正確ではない。重力相互作用が引力だけだということから、必ず宇宙は減速的に膨張するという結論は出てこない。アインシュタインの重力方程式の解には斥力なしでも加速膨張する解が存在する。ただ物質が現実に存在する現在の宇宙を前提に考えると、ここでの議論が一般的に成立する。 ところが80年代に入ると、理論家たちから、宇宙の初期にインフレーションつまり加速膨張が起きたという説(インフレーション宇宙論)が提唱されるようになる。当時の宇宙論には3つの説明が付かない謎があった。宇宙全体がほぼ平坦(ガウス曲率0)であること、磁気単極子が発見されないこと、宇宙が方向に依らずほとんど均一であること(等方性)、この3つだ。この謎の解明に多くの物理学者が挑戦したが答えは容易には見つからない。だが、もし宇宙のごく初期にインフレーションがあったと考えると3つとも説明が付くことに理論家たちが気付いた。インフレーションが起きることで、曲率は限りなく0に近づき、磁気単極子の密度は限りなく小さくなる。因果的に連関し熱平衡状態にあった領域が加速膨張で因果的な連関を失い、ただ痕跡として等方的な状態が残る。こうしてインフレーション宇宙論は、宇宙の謎を解く有力な理論となった。 しかし、当時は、インフレーションはごく初期の宇宙に起きただけで、現在の宇宙はインフレーションが終わり膨張は減速していると考えられていた。それは先に述べたとおり、宇宙を支配するのは重力でインフレーションを起こす斥力が存在しないからだ。インフレーションを起こすには、重力相互作用の引力を凌ぐ斥力が必要となる。宇宙のごく初期であれば、相転移前の真空エネルギーなどでインフレーションを説明することができる。しかし相転移が起きて現在の宇宙が誕生して以来、インフレーションが再び起きるとは考えられなかった。 ところが、ノーベル賞受賞の3人はこの常識を覆し、今現在も宇宙にインフレーションが起きていることを明らかにした。そして、その成果から、斥力の原因になる(未知の)ダークエネルギーの存在が理論的に推測されている。しかも宇宙の組成の7割以上がダークエネルギーであると言われる。 宇宙は神秘に満ちている。重力相互作用が引力だけであるにも拘わらず膨張し続け、しかも加速膨張している現在の宇宙、そして正体不明のダークエネルギー、現代の理論物理学の発展の鍵がここにある。理論、実験観測の両面で、研究の進展を大いに期待したい。また私たち素人は大いに想像力を発揮して自分だけの宇宙物語を作ったらさぞかし楽しいだろう。世知辛い現代、たまには気宇壮大な夢を見るのもよい。秋の夜長、宇宙論の本を紐解くことを是非お勧めしたい。 了 |