☆ 規則と法則〜数学を介して ☆

井出 薫

 「規則」と「法則」の違いは何か。いずれも人間の行動を拘束するが、恣意的で意図的に違反が可能なものが「規則」、必然的で違反することが不可能なものが「法則」とでも言えば、大きな間違いはないだろう。

 自然現象は「法則」で特徴づけられ、社会現象は「規則」で特徴づけられる。正しい自然法則には決して逆らうことはできない。一見自然法則に逆らっているように見える現象も実は自然法則に従っている。自然法則を利用することはできるが、違反したり変えたりすることはできない。一方、規則は違反することもできれば、変えることもできる。無視することもでき、無視しても何も影響がないこともある。

 では、こう特徴づければ問題は全て解決したと言えるのだろうか。少なくとも、二つの問題が残る。なぜ、この世界には、規則で記述される世界と、法則で記述される世界があるのか、それは客観的な事実なのか、それとも主観的又は人間的な事実なのか、という問題が一つ。この問題は、西洋哲学史における最大の難題である「存在」と「当為」、「事実」と「規範」の関係に繋がっており、この問題に答えを与えることは、哲学史を貫く難問を解くことになる。もう一つの問題は、数学は規則なのか、それとも法則なのかという問題だ。前者は簡単に答えが出せるような問題ではなく、また、後者を解くことが前者を解く手掛かりになるので、ここでは後者の数学の問題について簡単に触れておくことにする。

 数学は、規則の集合とみることができる。しかし問題はこの規則の集合の硬さだ。規則は違反できるところに特徴があるが、数学の規則に違反すると矛盾という隘路に陥る。ウィトゲンシュタインは「矛盾して何が悪いのだ」と開き直り、矛盾を排除することで数学的プラトニズムを主張する実在論者たちに反撃するが、数学の確実性、唯一無二性は否定し難い。このことを考えると数学は規則というよりは法則と見る方がすっきりする。

 その一方で、数学を実在論的に捉え、自然科学的な対象に関する真理を扱う学とすると、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学が並存することの説明がつかなくなる。水平線に関する矛盾した公理からそれぞれ整合的な体系が導けるのだから、数学は単なる自然科学ではなく、紛れもなく恣意的な要素つまり規則としての要素が存在することが導かれる。

 このことから、規則と法則を対立的に捉え、両者を全く異質な何か、両者が並存する中間領域は存在しないとする考えが誤っていることが示唆される。

 規則も法則も、人間が何らかの対象を把握するために用いる道具であり、それ単独で自律的に存在する訳ではない。自然現象を理解するために自然法則を使用するが、法則の使用方法は一意的には決まらない。それゆえどのように使用するかは、規則として表現する必要がある。その意味で、法則は規則が存在して初めて法則となると言ってもよい。法則は規則の上に聳え立つ。しかし、こう言うと、法則の必然性が否定されるように思えるかもしれない。なぜなら規則が土台にあるとすると、規則の恣意性が法則にも及ぶように思えるからだ。だが、そうではない。法則の土台としての規則とはあくまでも法則の使用方法の枠組みに関わるものだからだ。恣意的な土台の中に、堅固とした必然の世界が存在していても少しも不思議ではない。

 数学という規則と法則の両面を有する学問は、規則と法則の関係は決して平面を分かつ二つの領域のような単純なものではないことを示している。しかし上の考察では、規則に法則の使用方法という性格を与えたが、これはあくまでも自然科学や数学に関して言えることであり、社会科学には当て嵌まらない。そこは元々法則の世界ではなく規則の世界だからだ。それゆえ、法則と規則の関係は依然として謎として残る。しかし数学を題材として両者の関係を問うことで、手掛かりが得られることは間違いない。それをより深く探究することがこれからの課題になる。


(H23/9/3記)


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