☆ 「存在する」とはどういうことか ☆

井出 薫

 ブラックホールが星を呑み込むところが観測されたと報じられた。しかしブラックホールは全てを呑みこみ、そこから何も出てこないから直接観測はできない。それなのにブラックホールが星を呑み込むと何故語ることができるのだろうか。
(注)厳密に言うと、ブラックホールは量子効果でエネルギーを放出する(ホーキング放射)。しかし、現在の宇宙では、吸収するエネルギーの方が放射するエネルギーよりも桁はずれに大きい。また放射エネルギーはブラックホール内部の情報を外部には伝えられない。従ってホーキング放射はここでは無視することができる。

 ブラックホールに吸い込まれる物質は大量のX線やガンマ線を放出する。この観測結果とブラックホールに関する物理理論(一般相対性理論)、この二つの柱からブラックホールの存在が示唆される。つまりブラックホールそのものが直接観測できる訳ではない。一般相対性理論が正しいことを前提にして初めてブラックホールは存在できる。一般相対性理論は多くの実験、観測結果から支持されており、現代物理学の基礎理論の一つとなっているが、量子効果を取り入れておらず、厳密に言えば完全な理論ではない。宇宙の始まりやブラックホール内部のように超高密度で時空の揺らぎをもたらす量子効果を無視できない系では、一般相対性理論だけでは全てを説明できない。上述のブラックホールからのエネルギー放出がその一例だ。それゆえ、ブラックホールは現時点では理論的な存在に留まる。更に、将来、より完全な物理理論が発見されても、ブラックホールが理論的な構築物であることには変わりはない。いずれにしろ、広大な宇宙や極微の素粒子の世界では、「存在する」とは「理論的に構成される」という意味を持つ。

 実験データA,B,Cがあるとする。そこから理論Xが導かれ、理論XからD,E,Fなどの現象が予言される。D,E,Fは実験や観測を通じて試験され、予言通りであれば、Xは(暫定的に)妥当な理論として承認される。ここでAからFは理論Xとは直接的な関係はないと考えたくなる。実際、専門家も含めて多くの者は、AからFは、理論Xが存在するかどうかに関わりなく、それ自体で客観的な事実だと考えている。しかし、ブラックホールの例で分かる通り、一般相対性理論という理論が存在し、それが観測データ等で支持されて初めて、「ブラックホールに吸い込まれる星」という表現が可能となる。たとえ宇宙そのものが(人間の意志から独立に存在するという意味で)客観的な存在であったとしても、私たちが記述する個々の現象は、それを包括的に説明する理論が存在して初めて存在すると言える。確かに「何かが在る」。しかし「どう在るか」(存在をどのように表現するか)は、理論なしには答えることができない。

 一般相対性理論など理論そのものだけではなく、時間と空間、情報なども、それを測定する方法や基準と連動して初めてその意味が定まる。測定方法と無関係に、1メートルとか1時間とか言っても意味がない。全宇宙、過去・現在・未来などもそれ自身でその存在が自明な訳ではない。そのことはカントの「純粋理性批判」が実に見事に描き出している。これらの概念も、理論や実験・観測との相関において存在の意味が定まる。さらに「生命」は物理学的には生命を持たない存在と区別できず(たとえば、ウィルスと自己成長する結晶体は物理学的には質的な差異を持たない)、生物学的にも、生命体と非生命体との境界は明確ではない。従って、「生命」の存在の意味は、高度に理論的、イデオロギー的になる。「生命の尊厳」を議論する際に、医療の問題のみならず、人間以外の生物の権利が話題になることがあるが、ここにも「生命」という概念の不確定性が如実に示されている。
(注)「生命」以上に曖昧で厄介な存在に「心」や「善」があるが、本稿では議論しない。

 こうして、「何が」、「どのように」存在するかは、どのような理論と思想と経験を有するかで大きく異なってくる。あらゆる存在は、その存在様式において、対象の説明方法や記述方法そして背景としての理論に依存する。このことは自然科学的な領域に留まることではない。社会現象は、およそ全てが、その最初から、観念的で構成的な存在となる。理論や思想、共同体の在り方を捨象しては何も議論することができず、その存在の意味も定まらない。さらには学問領域を超えて日常生活や産業活動においても少しも変わることはない。寧ろ、自然科学の対象となる自然現象が一番客観化されやすく、日常の雑事に近いことほど、主観的、観念的、共同体的(共同体における見解の一致に依存する)になる。

 ハイデガーは、哲学の第一問題は「存在論=存在とはそもそも何か」だと主張した。個別の学問は、存在者の中で具体的な領域を定めてその内部で研究を展開する。この内部と外部の境界線は予め定められている訳ではない。従って、何らかの方法で内部と外部を分ける必要が生じる。それには世界について語る(ときには無意識的な)世界像が欠かせない。それなしには世界はない。神話は科学の対極だと思われているが、実は世界を分節化する道具(世界像)としては科学と同一次元に位置する。事実、社会的存在の人間にとって、神話と科学は案外近いところに位置している。現代においては、神話のない科学はなく、科学のない神話はないと言ってもよい。

 一方で、全ての個別の存在者を包含する統一的な視点で、「存在」(全存在者の存在)の在り方を問うとき、その「存在」は個別の(学や物)の境界を超えた全体的な視点が必要となる。しかし、この問いに答えることは極めて困難だ。それを支える理論も実験・観測データもない。それゆえ、この全体としての存在者とその存在について問うことは、個別科学の領域に属することではなく、専ら哲学の課題となる。だからこそ、哲学の第一問題は存在論だとハイデガーは考えた。
(注)ハイデガーの存在論の特徴は、存在者と存在を明確に分け、かつ、存在者に対して存在の優先性を強調するところにある。「何が存在するか」=「存在者は何か」、「全存在者の存在性格は何か」、「なぜ存在者が存在し、寧ろ無ではないのか」などを中心的な問いとする(ハイデガーやニーチェが言うところの)西洋形而上学の存在論を超えたところにハイデガーの存在論は位置するとされている。それゆえ、「存在(する)」の意味(在り方)を本格的に議論するにはハイデガーを通り過ぎることはできない。しかしながら、現実には存在者と存在の区別は曖昧であり、ハイデガー自身その区分は明確にできていない。また、必ずしも、両者を明確に区分することが適当ではないこともあり、況や存在を存在者に優先させることが妥当かどうかには疑問がある(レヴィナスによる批判など)。そこで、本論では、ハイデガーの議論には立ち入らない。

 「存在(する)」の意味は、個々の物や、個別科学の領域に属する事象に関して言えば、理論や言語の在り方を介して相対的に定まり、全存在者の「存在(する)」とは哲学的(あるいは神学的)な思索の中で定まるものだと言えよう。そこに哲学の存在意義があるが、逆に言えば、哲学がしばしば不毛な議論になる理由がある。ウィトゲンシュタインに倣うと、全存在者の存在は語ることができない領域に属するからだ。ただし、「存在する」とはどういうことかを問うことは、私たちの思考回路を明確にすること、その背景にあるものを探るうえで極めて有益であり、擬似問題として解消すべき問題ではない。そのことは銘記しておきたい。


(H23/8/28記)


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