☆ 存在と当為 ☆

井出 薫

 「夏の風物詩」と書けば、「なつの・ふう・ぶつ・し」と読むことになっている。「なつの・かぜ・もの・し」と読んだら馬鹿にされる。何故なのか。「当り前だ」という答えが返ってくるが、納得いかない。視力検査で、検査官が、この表現からランダムに文字を選び出して、読むように被験者に指示をするとしよう。まず「物」を棒で指し示す。ほとんどの被験者は「もの」と答える。「ぶつ」と答える者は僅かだろう。次に「風」を指し示す。今度もほとんどの者は「かぜ」と答える。だから、「なつの・かぜ・もの・し」と読んでも間違いではない。「なつの・ふう・ぶつ・し」と読まなくてはいけないと考えている者こそ勘違いをしているのだ。

 こういうことを言うと、「また哲学オタクがへ理屈を捏ねている」と嘲笑される。しかし、この論理のどこがおかしいのか、指摘できる者はいない。「風物詩」と書いてあれば、「風」、「物」、「詩」と別々に意味を持つのではなく、「風物詩」という全体で意味を持つのだ、というのが良くある答えだが、答えになっていない。それは視力検査の例で十分に分かるはずだ。「風物詩」と並んでいたら、それを分割してはいけない、などというルールはどこにも存在しない。

 とは言え、確かに、現実にはこの表現を視力検査に使うことはなく、「風物詩」は、この言葉を知っている者なら、ほとんど何の疑いもなく、「ふう・ぶつ・し」と読む。しかしながら、この些細な事実に、哲学者、そして政治学者、社会学者や法学者を悩ませ続けている大問題、「存在と当為」の問題の根本性格が現れている。

 カント以来、ヘーゲルなどから異議申し立てはあったが、「存在」と「当為」は別次元に属するものとして扱われている。「盗みはしない」と「盗みをしてはならない」は密接な関係があるが、別次元に属する。前者は「存在」(あるいは「事実」)に属し、後者は「当為」(あるいは「規範」)に属する。後者は前者であることを要請するが、常にこの要請が満たされる訳ではない。「盗んではいけない」ことを知っていて盗む者が絶えない。殺人はいけないことだと誰もが知っているが、それでも殺人がおきる。当為は存在を導かないし、存在が当為を正当化することもない。ヘーゲルに倣い「存在」と「当為」を弁証法的に止揚=総合することはできる。あるいは、ハイデガーやデリダに従い、両者の境界を流動化・脱構築することはできる。しかし、所詮は哲学的思弁の世界に限られ、現実には、両者の明瞭な差異に私たちは悩まされ続けている。「なぜ、悪いことだと知っているのに、遣るのか」と私たちは嘆く。「右の頬を打たれて左の頬を差し出す者などいないのに、なぜ、イエスを信仰することができるのか」とキリスト教徒でない者は訝しく思う。「正義論」のロールズは多くの国でたくさんの支持者を得ているが、それでもほとんどの国は経済を優先している。このように「存在」と「当為」は収斂することのない領域として独立している。

 「風物詩」を「かぜ・もの・し」と読むと間違いだと指摘されたり、嘲笑されたりすることは、「当為」(または規範)の領域に属する。一方、「ふう・ぶつ・し」と読むことは「存在」(または事実)の領域に属する。そして、ときには「かぜ・もの・し」と読むことがあり、「当為」の領域が参照されて、誤りを指摘されることになる。つまり、「かぜ・もの・し」と読むことは事実としての誤りなのではなく、「当為」の領域で不適切だと判断されている。ここに、「存在」と「当為」を総合する鍵があり、同時に、両者が永遠に収斂しない理由もある。要するに、「在る」のは一つの事実(存在)なのだが、私たち人間は、そこに二つの世界領域(「存在」領域と「当為」領域)を展開せざるを得ない。

 なぜ、そうなのか。答えることは難しい。人が「社会」という自然とは一線を画した領域を構築したからだと答えることはできる。しかし、ちょっと考えれば、これは「存在」と「当為」の問題を、自然と社会にすり替えたに過ぎないことがすぐに露呈する。要するに、答えは見つかっていない。

 「夏の風物詩」を楽しむのではなく、存在と当為の問題に結び付けるなど、野暮もいいところだが、こういう風に思考回路が飛躍することのうちに、存在と当為の問題を考察する手掛かりがあるのかもしれない。


(H23/7/24記)


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