☆ 「世界」とは ☆

井出 薫

 誰でも知っているが、良く分かっていない言葉がある。「世界」はその一つだ。「世界平和」と言うとき、「世界」は国際社会を意味する。世界の本質を問うとき、「世界」は存在全て(森羅万象)を意味する。「世界」とはそもそも何だろう。ここでは「世界」という概念の起源を考えてみる。

 ハイデガーは、人間存在を「世界=内=存在」だと言った。机は世界の中に在る(内世界性)。しかし机は世界に在ることを知らない。人間も机同様に内世界性を有するが、同時に世界そのものに気配りしている。人間にとって世界とは、机にとっての世界とは異なり、そこにただ在るだけではない。世界そのものを人が開示しているという側面がある。

 人は、目の前に置かれている机だけではなく、他の部屋に置かれた机、家具店のショールームに展示されている机、すでに廃棄された机など無数の机を想像し、語ることができる。現実には存在しない架空の机を創作することもできる。個別の机だけではなく、「机」一般について、その性質や存在意義について語ることもできる。人はこうして目の前に在る物や記憶に残された物だけではなく、経験を超えた存在全般について思いを寄せることができる。存在全般を表現する言葉には、「存在」以外にも、「宇宙」、「世界」などがあるが、「世界」が最も良く使われる。

 なぜ私たちは経験を超えた普遍的な「世界」なる物を考え、語ることができるのだろう。

 言葉が鍵を握る。「机」という言葉は様々なものを表現することができる。目の前にある机、机の集合、机一般、机の性質などを表現できる。英語のように単数と複数で表現が異なる言語でも、「机」という言葉は多義的で様々なものを表現できる。この言葉の多義性が、抽象的で超越的な「世界」を描き出すことを可能とする。多義的であるということは欠点でもある。言葉が多義的であるためにしばしば誤謬と諍いが生じる。若きウィトゲンシュタインは言葉の多義性を克服しようと苦闘した。しかし齢を重ねて賢くなったウィトゲンシュタインは言葉の多義性は欠点ではなく寧ろ可能性であることを悟る。「世界」という地平は正に言葉の多義性により開かれる。

 現象学は言葉よりも人の認識の在り方に着目する。私は目の前に在るテレビの裏側を見ることはできない。裏を見たければ、後ろに回るか、カメラや鏡で裏を映す必要がある。雲の向こうに何があるかは飛行機に乗って調べるしかない。100億光年彼方に在る光る物体の正体は、量子論や相対論、統計力学や電磁気学などの物理理論を総動員して、理論的なモデルとして説明することしかできない。しかし、いずれにしろ人は感覚で直接捉えることができる領域を超えて、何かが存在することを知っている。このことから、人は経験を超えた普遍的な「世界」を語ることができる。

 言語論的な説明と、現象学的な説明とどちらが正しいのか。こういう問いに余り意味はない。どちらも「世界」を語る上で欠かせない。言葉がなければ世界を語ることはできず、現象学的考察を開始することもできない。一方、現象学的な考察が教える人の認識の在り方が言葉の意味を支えていることも忘れてはならない。どちらか一方では「世界」は生まれない。

 しかし、これで問題が終わるわけではない。言語も、認識も、「世界」の可能性を与えるだけで、「世界」の必然性を論証しない。人が「世界」を必要とする何かがある。ニーチェはそれを「弱者のルサンチマン(復讐心などと訳される)」だと言った。人間社会の圧倒的多数を占める弱者は、目の前にある現実を肯定することができない。そこで架空の天上世界を作り出しそれこそが真の世界だと考える。この架空の世界では惨めな現実は逆転され、敵は倒され自らが支配者となる。この架空の天上世界創造への意志(必要性)こそが、「世界」という抽象的で超越的な概念を生みだすことになる。
(注)ニーチェが言う弱者とは、私たちが日ごろ使う社会的弱者の弱者とは意味が違う。ニーチェ的基準からすれば、政治家、官僚、大企業経営者、大資産家など現実社会の中枢を占める者のほとんどが弱者と判定される。逆に社会的弱者と呼ばれそうな階層に属していても強者と判定される者もいる。ニーチェの主著「ツァラトストラ」の主人公が、現代の日本に暮らしていたら、ただの貧乏な変人として蔑まれているかもしれない。

 ニーチェは余りにも捻くれている。現実に恨みを抱く者は多いし、天上世界に憧れる者も多い。だが大抵、人は現実と折り合いを付けて暮らしており、ニーチェが言うような極端な事例は少ない。しかしながら、人が現実とは違う世界を追い求めるという意志(衝動)は確かに強烈なものがある。そして、それが「世界」創造へと繋がっていることは間違いない。

 言葉、認識、意志(衝動)、この3つが「世界」を生みだしている。「世界」そのものは物理学者が扱う物理学的世界のように客観的なものではない。しかし「世界」という概念は人の思惑を超えて、物理学的世界のような客観的な世界を掌中に収めるところまで進化した。「世界」とは何かという問いには答えはない。ただ「世界」という場こそが、「世界とは何か」、「世界はどうあるべきか」と問う者たちが飛翔することを可能としている。


(H23/6/26記)


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