☆ 現象学と精神医学 ☆

井出 薫

 不安障害や気分障害のように比較的軽症で現実検討力が残る疾患から、統合失調症や重度の双極性障害のような妄想と現実の区別が付かない状況に陥る疾患まで、精神疾患は多岐に亘るが、いずれにしろその研究には現象学的な手法が必要となる。他の科学や医学では哲学的な考察はほとんど必要ない。寧ろ哲学者が出てきても問題を解決するどころか混乱させるだけに終わる。ところが精神医学(や臨床心理学)だけはそうではない。

 精神医学も、前世紀の50年代以降、抗精神病薬の発見に促されて、物理科学的な対象性、客観性の科学として確立されるようになってきた。依然として、ほとんどの精神疾患で、原因となる脳神経系の器質的異常は明らかにされていない。ドーパミンの過剰な働きが統合失調症に関連していることは間違いないようだが、具体的なメカニズムは解明されていない。そもそも抗精神病薬がなぜ効くのかすら良く分かっていない。寧ろ、抗精神病薬の薬理から逆に統合失調症の原因や脳の異常が推測されているのが現状だ。これは統合失調症だけではなく、双極性障害、うつ病など気分障害でも変わることはない。さらに、軽度の不安障害やストレス障害などは、その脳内メカニズムはほとんど解明されていない。

 いずれは、脳科学的な研究であらゆる精神疾患の原因が究明されるときが来るのだろうか。この問いの答えは未来の研究者に任せるしかない。ただ、たとえ脳の異常のメカニズムが完全に解明されても、精神医学には他の科学や医学とは異なる難問が永遠に残る。それは脳でこれこれの現象が起きるとなぜ、患者の内面に、これこれの症状(たとえば妄想、幻聴、恐怖)が現れるのか、という問いだ。この問いには答えはない。ただ私たちが指摘することができるのは、相関関係の存在に過ぎない。コンピュータは心を持たないが故に、どのような故障が起きても精神疾患のような症状を示すことはない。内面というものを想定することができないからだ。ところがコンピュータと違い、人間は心が苦しくなる。それは共感や想像により外部からある程度は接近することができても、本人自身にしか本当のところは見えていない。

 それゆえ、精神医学においては、現象学的な方法が欠かせない。外的な物理学的・化学的な方法だけでは、精神疾患は理解できない。医師など他人は、患者の内面に入りこむことはできないが、患者自身は常日頃から自分の内面に対して現象学的な接近を試みている。特に軽症で現実検討力が十分に備わっている患者は、その傾向が強い。患者は、常に、自分の意識における、釈然としない、不安を掻き立てる何かに惑わされ、悩まされている。それが何か、どうしてそうなるのかは本人にも分からない、分からないという感じが益々患者を苦しめる。現象学とは、実に、精神疾患において本来の姿を示すと言っても過言ではない。

 フッサールにより開始された現象学では、ノエシス・ノエマ構造という論理的、理論理性的な観点が中心をなしている。それゆえフッサールの現象学では、言葉で明快に語ることができる世界の構築が求められる。一方、精神医学では、寧ろフッサール流の現象学では軽視されていた感情の動きや感覚が大切になる。それはしばしば言葉で語ることが困難なものであり、そのことが患者と医師、双方を困惑させる。

 フッサールは、カントの問題圏の延長線上に位置し、正しい認識を得る方法を見いだすことを課題とした。従って、その現象学が理性的、論理的なものになることは当然だった。しかし精神医学において要求される現象学は、幻聴、幻視、異常な思考、重苦しい気分、切迫感、焦燥感、異常な高揚、ストレスなどを捉える視界であり、フッサールの現象学的世界とは合致しない。

 フッサールの現象学は多くの哲学を生み出し、その哲学史的な役割はすこぶる大きい。しかし、その手法自体はすでに過去のものとなった。フッサールは厳密な知の確立に成功しなかったし、そもそもフッサール流の理性的・論理的な現象学で真理並びに真理に至る確実な道を獲得することはできない。私たち人間は多彩な方法で対象を選択、研究しモデルを作り現実と対照する。その具体的な在り方は現象学と対比させることが不可能なほど多彩で多岐に亘る。逆にフッサール的現象学から導出できることは限られており、現実に役立つ結果を生むことはない。

 精神医学と課題を共有する感覚や感情に立脚する現象学、それこそが、現代が求める哲学的現象学なのだ。この現象学は精神医学に関連する諸問題を解明し、精神疾患の治療に貢献するだけではなく、理性よりも寧ろ感情に支配される社会の本質を捉えることに役立つ。精神医学という科学と、現象学という哲学が交流することで、新しい知の地平が切り開かれることを期待したい。


(H23/6/11記)


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