井出 薫
大学を見学したいと一人の男が遣ってきた。事務員が大学を案内したところ、男は礼を述べながら、こう言った。「講堂、教室、研究室、図書館、食堂、グラウンド、教員、学生、職員など色々見せて頂きましたが、大学を見ることができませんでした。」 「大学」とは、これと指差すことができる実体ではない。様々な構成要素からなり、法により「大学」を標榜することが許可された存在を「大学」と呼ぶ。男は大学を見ていないと言うが、大学そのものは直接見ることができる存在ではない。ただ大学を構成する諸要素を見ることができるに過ぎない。そして男は事実それを見学した。男があとするべきことは、この構成要素の総体が、大学を名乗る法的権利を有しているかどうかを確認することだけだ。 20世紀を代表する法学者の一人ケルゼンは、「国家」と「法」は同一であると主張し、「国家」を「法」とは別の存在、「法」の前提とする考えを厳しく批判した。法も国家も秩序であり、法と国家は同一であるというのがケルゼンの立場で、それによると、他の法学者たちは、大学を実体として考えている男と同じ誤りを犯しているということになる。ケルゼンの純粋法学には批判も多いが、国家を実体化して考えることが間違いであることを指摘した点は正しい。国家も、大学と同様、これと指差すことができる実体ではない。 「無意識」は(薄れてきたとはいえ)フロイトの威光もあり、現在においても、実体として考えられることが多い。しかし、無意識なる自律した実体が存在する訳ではなく、人の言動や思考が「無意識的に」遂行されることを象徴的(名詞的)に述べた比喩的な表現に過ぎない。 このように、人は言葉を誤解して、関係体、法的存在(法体系において価値づけられる複合体)、機能などを、しばしば実体化=名詞化し、それを独立した存在と信じ込む。ウィトゲンシュタインによれば、それは言葉の使用の展望を見失うことから生じる錯覚だということになろう。 しかし、「大学」はいざしらず、「国家」を単なる関係体、法的存在、機能に過ぎないと考える者は少ない。事実、それは独立した実体として私たちの前に聳え立っている。国家を地上において比類なき存在=リバイアサンだとホッブスは論じたが、一概に間違いだとは言えない。事実として「国家」は実体として私たちの前に現れている。ケルゼンも、「国家=法」という主張は、(純粋)法学を(規範)科学として確立するための一つの理論的な図式であることを認めており、現実世界において「国家」があたかも実体であるかのような強力な働きを有していることを否定はしない。「国ために命を賭ける」、「国を愛する」、こういう発言をし、それに従い行動する者は、正しく、実体化された国家へ忠誠を誓っている。「国家には屈しない」と抵抗する者も、また、国家を実体化している。このように、保守にしろ、革新にしろ、多くの者たちが国家を実体化していることが分かる。「無意識」についても、たとえフロイトに無関心な者でも、自分の中に「無意識」なるものがあり、それを理解することが大切だと考える者が多い。「本当のところ、私は何を望んでいるのか」、「なぜ私は同じ過ちを繰り返すのか」などと悩む時、人はしばしば自分の内面に実体としての無意識を想定することになる。 なぜ、このような実体化が起きるのだろうか。「国家」や「無意識」の実体化を、言葉の使用に対する誤解だと退けることは容易い。だが、それだけでは人間と社会の在り方を理解することはできない。このような実体化には、それ自身に必然性があり、単に「誤解している」と指摘するだけでは問題は解消しない。国家が実体化される背景には、様々な社会的諸関係や人々の思想的・文化的態度が存在する。無意識についても同じことが言える。 この実体化は言葉を通じて行われる。この事実を理解することが大切になる。洋の東西を問わず、言葉には不思議な力があると古より信じられてきた。そのことは今でも変わらない。言葉を通じて、人間社会の諸関係が、そして人々がその諸関係の中で抱くイメージが、実体化していく。一つの言葉が生まれ、それが繰り返し人々の前に現れることで、そこに一つの実体が生まれる。理論的に考えるとそれが幻想でも、この実体は言葉と共に紛れもない現実的な力を発揮する。それゆえ、言葉が生まれる場、あるいは、それが繰り返し強調される場をつぶさに観察して、その正体を暴き出すことが、国家や無意識の秘密を解明する鍵になる。だが勿論これは容易なことではない。なぜならそこには常に政治的なイデオロギーが働き、言葉の背後にあるものを隠蔽しているからだ。そしてその隠蔽する作用もまた言葉として現れる。それゆえ、何が真実で、何が虚偽であるかを見抜くことは困難を極める。しかし、未来を切り拓くためにも、その試みを放棄することはできない。そして、この試みを遂行することこそが、現代における哲学の任務となる。 了 |