☆ 設計図と制作物 ☆

井出 薫

 設計図と制作物は同じ物、制作物は設計図通りに動くはずというドグマが現代人の心を支配している。しかし、ウィトゲンシュタインはそれが間違っていることを指摘した。設計図と制作物との間には無限の差異がある。

 マルクスは、建築家と蜜蜂を比較し、蜜蜂がどんなに精巧な巣を作ろうとも、最悪の建築家の方が蜜蜂よりも優れているとした。そして、マルクスは、理由として建築家の頭の中にはすでに完成された建築物が存在することを挙げている。しかし、マルクスの考えは正しいとは言えない。設計図は頭の中ではなく、紙の上、あるいはコンピュータのディスクの中にあることを差し引いても、設計図と完成した建築物の差異は解消することはない。マルクスはこのことを十分に認識していない。

 設計図と制作物の差異は、事故が起きたときに明白になる。福島原発事故でも、津波の高さが想定を超えていたとは、設計上は幾重にも備わった安全装置が起動して事故を回避できるはずだった。大規模な事故ではなくとも、日頃、パソコンが言うことを聞かなくなり、電源リセットが必要になるときなども、差異が露わになる。

 設計図は、それだけでは何者でもない。犬や猫には設計図は何の意味もない。紙の上に書かれているならばそのうえで寝るだけだ。古代の人々にもコンピュータの設計図は摩訶不思議な産物でしかない。設計図は、それを利用して、建築や製造、運用、修理など様々な社会的活動を行う共同体が存在して初めて意味を持つ。設計図は、重要な要素ではあるが、制作物との間には無数の媒介者が存在し、両者の間には無限の距離がある。

 人間の建築家が蜜蜂よりも優るのは、頭の中に建築物が予め存在するからではなく、同じ高度な社会生活を営む生物種でも、言語構造が高度で、かつ多種多様な道具を使う点で、人間社会の方が蜜蜂のそれよりも遥かに柔軟性、発展性、汎用性の面で優れているからだ。つまり、孤立した設計図や頭の中の観念に、人間の優位性が存在する訳ではない。マルクスほどの偉大な思想家でもこの点を見逃している。設計図と制作物の同一性というドグマはさほどに根強い。

 設計図と制作物の同一性というドグマは、ヘーゲルにおいて頂点に達した「存在と思惟の同一性」という西洋哲学の伝統と符合している。人間主義や科学主義は、「人間は存在を完全に認識する」、「人間の頭脳の産物である設計図は自然と社会を完全に制御する」、こういう思惟と存在の同一性というドグマに基づいている。その結果、科学技術は絶大の信頼を得ているのだが、巨大な自然災害だけではなく、身の回りの機械が故障しただけでも、それが幻想に過ぎないことが露呈する。しかし、同一性のドグマは強固で、人々は科学技術への信仰を捨てることができない。そして、期待が裏切られるとスケープゴートを血眼になって探し求め、糾弾する。悪いのは、悪人か愚か者であり、科学ではないという訳だ。
(注)科学を悪だと言うのではない。人と科学を分離して、人に悪を押しつけることはできないということを言いたいのだ。

 存在と思惟は合致しない。人間社会は自然の一部として絶え間ない環境との相互作用の中に存在する。そしてその相互作用がどのような帰結をもたらすか正確に予測することはできない。設計図はその社会のほんの小さな一要素として存在するに過ぎず、それを利用した制作物がどのような事件を引き起こすか予測することはできない。こういう現実をしっかりと認識し、科学技術を相対化し、それをどのように利用することが望ましいのか考えることこそ、今、何よりも求められている。


(H23/5/4記)


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