井出 薫
金子みすずの詩が名作なのかどうかは私には分からない。ただ詩の短い文章が真実を的確に捉えることはよく分かる。震災後のテレビで連日放映されすっかり有名になった「こだまでしょうか」などは、人と人とのごく当たり前で、しかし、普段は忘れている真実を読む者に訴えかける。長い哲学論文で倫理を小難しく論じるよりも、短い詩の方が遥かに強く人の心を揺さぶる。 ハイデガーは、哲学的探究を続けるうちに、控え目で少ない言葉の中に存在の真理を収め、後世の者に送り届けることこそ、哲学する者=思索する者の務めだと考えるようになる。未完の大著「存在と時間」で20世紀を代表する哲学者という名声を手に入れたハイデガーだったが、「存在と時間」の完成を目指す道程で、哲学の限界に気付いていく。ナチにコミットして批判を浴びたことも手伝ってか、晩年のハイデガーは寡黙になり、「存在と時間」の完成を放棄して、ひたすら存在への思索へと傾注していく。そこに残されたものは、もはや伝統的な意味での哲学でもなければ、「存在と時間」が目指した新しい哲学でもない。また伝統的な宗教でもない。「思索すること=詩作すること」を悟った元哲学者が綴ったささやかな詩集とでも言えるものだった。 ウィトゲンシュタインは若い頃から哲学の限界に気付いていた。簡潔な定理の羅列のように見えるその著「論考」で、ウィトゲンシュタインは哲学を解消しようとした。本当に大切なことは語りえない。そのことをウィトゲンシュタインは詩を綴るように語っていく。その試みは失敗に終わったが、それでも、ウィトゲンシュタインは伝統的、体系的な哲学へと向うことはない。「探究」など、死後、弟子たちにより世に出された遺稿集は全て短い詩の集まりような体裁をとっている。晩年のハイデガーと同様、思索とは詩作であることを、ウィトゲンシュタインもまた自らの実践で示した。 勿論、哲学と詩が同じものだということではない。哲学的問題とその解答が全て詩で表現できるというものでもない。ただ、人が、答えが無いことに気付きながらも、探究を止めることができない諸問題(それこそ現代においては「哲学」と呼ばれる)は、正に、詩人が語ってきたことに集約されている。そのことを、金子、ハイデガー、ウィトゲンシュタインが、それぞれの試みの中で示しているように思われる。 了 |