☆ 人類が制御できるもの ☆

井出 薫

 原発事故は、人が制御できるものの限界を示したように思う。

 自然界には様々な現象がある。しかし、物理学によると、その現象は究極的には全て4つの相互作用に帰着する。重力相互作用、電磁相互作用、強い相互作用、弱い相互作用、この4つだ。この4つの相互作用は一つに統一されるという考えがある。また第5の力(相互作用)があるという意見もある。だが現在の宇宙を支配するのは、この4つの独立した相互作用だ。

 人は古くから重力を利用してきた。それはニュートンが万有引力の法則を発見する遥か以前からだ。高いところにある物は支える力がなければ低いところに落ちる。それを使って人は農業、漁業、様々な産業を生み出した。現代においては水力発電にその典型をみることができる。次に、19世紀以降、電磁相互作用を体系的に利用することができるようになる。光子を媒介とする電磁相互作用の利用は、現代文明の根幹をなす。その利用は電気と電波に限定されるものではない。電気と電波と共に現代文明を実に快適なものにしている様々な化学反応は、全て、原子核を取り巻く電子間の電磁相互作用に基づいている。近年、医療診断に用いられるMRIなど様々な領域で画期的な働きをしている核磁気共鳴も電磁相互作用の一つだ。熱エネルギーもミクロに見れば重力相互作用と電磁相互作用に還元される。およそ現代文明の全ての技術は重力相互作用と電磁相互作用の利用の賜物と言ってよい。量子論と相対論、さらにはこの二つの現代物理学理論に基づく量子統計物理学が、古典力学と古典電磁気学、古典的熱統計力学を超えて人間の認識領域を大きく拡大したにも拘わらず、依然として人類が利用している技術は、基本的に、全て、重力相互作用と電磁相互作用に基づいている。人間の知恵と技術は、この二つの相互作用を手懐けることには成功した。

 ところが、この二つの相互作用の利用を超えた技術が一つある。それが核兵器と原子力発電に代表される核エネルギーの利用だ。原子核は陽子と中性子からなる。(水素を除いて)複数のプラスの電荷を持つ陽子と電気的に中性な中性子から構成される原子核がなぜばらばらにならずに安定しているのか、これは20世紀前半の物理学の最大の謎だった。その難問は、日本が誇る天才物理学者湯川秀樹により解決された。π中間子が陽子と中性子を結合させている。その結果、水素以外の元素でも、原子核が安定して存在する。π中間子が媒介する陽子と中性子を結合させる相互作用、この重力相互作用とも電磁相互作用とも全く異質な新しい相互作用は、やがて、強い相互作用と呼ばれるようになる。素粒子論と場の理論の進歩で、その後、強い相互作用の正体は、クォークとクォーク間を結合するグルーオンであることが判明した(量子色力学)。陽子、中性子、π中間子は本当の意味での素粒子ではなく、クォークがグルーオンを媒介にして結合した複合粒子だった。だが、いずれにしろ、原子核の存在を可能とするのは重力相互作用でも、電磁相互作用でもなく、強い相互作用であることに変わりはない。そして、核エネルギー技術は、この強い相互作用を利用している。

 重力相互作用と電磁相互作用は、私たちの身の回りの世界を構成する実にありふれた存在で、古代より、人間は、物体の運動に、雷に、その存在をみてきた。近代物理学が登場するまで、その本質を理解することはできなかったが、人々はそれと知らず、この二つの相互作用に慣れ親しみ、それを利用してきた。そして、その延長線上に現代文明もある。私たちは如何に精密な技術を手にしようと、基本的に、この二つの古代から慣れ親しんできた相互作用だけを制御できる。強い相互作用という理論的にしか知ることができない存在は、人間が制御可能な範囲を超えている。

 それゆえ、核エネルギーの利用は、人の手に余る無謀な試みだと思われる。確かに、原子力発電は広く利用されている。悲しい現実だが、厖大な数の核兵器が世界には存在する。この事実は、一見したところ、人が強い相互作用をも制御できるようになったと思わせる。だが、そうではない。2万4千年の半減期のプルトニウム239を1年で無害化することは絶対にできない。たとえ原子力発電所の安全性を飛躍的に高めることができたとしても、この先、多量の放射性物質を含む使用済核燃料の処理に人類は悩まされ続けることになる。発展途上国に次々と原子力発電所が建設され稼働するようになったら、たとえどんなに平和な世界が実現できたとしても、その脅威はリアルなものとなり、必ずどこかで致命的な大事故に繋がる。

 強い相互作用と、(強い相互作用より更に遥かに利用が困難な)弱い相互作用はただ認識の対象に留めるべきだった。強い相互作用はパンドラの箱で、人間は、その存在を頭に思い浮かべるだけに留め、開けてはいけなかったのだと思う。しかし、すでに開けてしまった。その報いを人類はこの先ずっと受け継いでいくしかない。核兵器だけではなく、平和利用と称する原発など核エネルギー利用を放棄しない限りは。


(H23/4/17記)


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