井出 薫
嘘については、これまでも幾度となく論じてきたが、少し視点を変えて議論してみたい。 嘘を吐く(人工知能で制御される)ロボットを作ることはできるだろうか。簡単だ、そう言う者がいるに違いない。しかし、嘘を吐くロボットを作ることはできない。なぜなら、「嘘を吐く」とはどういうことか分からないからだ。それゆえ「嘘を吐く」アルゴリズムは(少なくとの現時点では)存在しない。アルゴリズムが存在しない限り、嘘を吐くロボットを作ることはできない。 嘘とは何だろう。自分が信じている(又は、知っている)ことと故意に違うことを言うことだ。だが、「信じている」とはどういうことだろう。自分が、あることを信じていることを私はどうやって知るのだろう。「(平成23年3月20日の時点で)首相は誰か」と尋ねられて、正解(菅直人)を知っていて、「鳩山由紀夫だ」と答えたら嘘となる。しかし本当に「鳩山由紀夫」と信じていたとしたら、嘘を吐いたことにはならない。だから、私は嘘を吐くためには、「菅直人が首相だ」と知っていることを知っていなくてはならない。逆に、嘘を吐いたのではないと主張するには、「鳩山由紀夫が首相だ」と信じていたことを知っていなくてはならない。 (注)「私は、「Aである」と信じている」、かつ、「Aは真実である」ときに、「私は「Aである」と知っている」と言うことができる。哲学では、通常、「知識」と「信念」を、(知識や信念の)対象が真であるかどうかで使い分ける。「知識」と「信念」に関しては哲学において様々な議論がなされているが、ここでは触れない。ただ本稿では、「私はAであることを知っている」と表現したときには、「Aである」は真であるとする。一方、「私はAであると信じている」と表現したときには、Aは真でも偽でもあるとする。 自分が「鳩山が首相」であると信じ、「菅」であることを知らなかったことを、私は知っているとどうして言えるのだろう。あるいは、私自身に対してそういう問いを立てて、適当な答えを与えることができるだろうか。出来ない。私は「(平成23年3月20日現在)首相は鳩山由紀夫である」と信じていた。だが、その証拠を私は提出することはできない。私は、私の信念を知っていながら、知っていない。 「嘘を吐く」とは、正に、この曖昧な信念や知識、自らがそれを有していることを疑いの余地なく知っているはずなのに、その証拠を示すことができない、つまり、その意味で知っていないという不可解な存在に関わる、実に不可解な振舞いなのだ。 嘘にはさらに難問がある。「故意」とはどういうことだろう。無意識のうちに何かを行うことと、故意に何かを行うこととどこが違うのだろう。その違いは何にあるのか。そして、私たちはそれを知っているのか。私たちは、自分自身の行為が故意かどうかを疑いの余地なく知っていると言いたくなる。だがその証拠は何か。故意であるときとないときで何が違うのか、それを取り出してみせることができるのか。できない。 それゆえ、最初に述べたとおり「嘘を吐く」アルゴリズムが分からない。だから「嘘を吐く」プログラムをどうやったら書くことができるか、私たちには分からない。データベースに「日本の首相(平成23年3月20日現在)=菅直人」と書きこみ、質問に「鳩山由紀夫」と答えるプログラムを書くことは容易い。しかし「故意」に何かをするプログラムを書くことはできない。どう書けば「故意に何かをする」ことになるのか誰も知らないからだ。さらに、人は、自分が「菅直人が首相である」という信念を持っている証拠を示すことができない。ところがプログラムでは「菅直人」は明示されているから、証拠を示すことに何の困難もない。だが、そのことこそ、私たちの信念(又は知識)とコンピュータのデータが全く異質であることを示している。 このように、ロボットが有する情報は人間の信念や知識とは全く異なり、しかも、ロボットに故意に何かをさせることはできない。それゆえ、嘘を吐いているように(表面的には)みえるロボットを作ることができるだけで、嘘を吐くロボットを作ることはできない。 ところで、嘘を吐くロボットを作ることができないからと言って、ロボットは正直だと言うことはできない。嘘を吐くことができる者だけが、正直でもありえるからだ。この不可解な事実こそ人間の本質を示す。「嘘」とは正に人間の本質を表現する。−人間以外の動物もまた嘘を吐くことはできない。−その意味で「嘘」は人が人であるための必須条件と言ってよい。しかし、反道徳的とされる「嘘」が人間の本質であるとは極めて皮肉な状況だと言わなくてはなるまい。 了 |