井出 薫
哲学では、しばしば、「他人が心を持っている」ことをどうやって知ることができるのかが問題となる。これは「他我問題」(あるいは「他者問題」)と呼ばれ、重要な哲学的難問とされる。だが、これは意味のない問題ではないかと思われる。なぜなら、他人の心の実在性を問題にするには、私が心を持っていることは確実であることが前提になるが、「私が心を持っている」ことをどうやって知ることができるのか分からないからだ。 「私は心を持っている(私には心がある)」ことなど自明だと言うだろう。だが、それをどうやって証明するのか。私の目の前に二人の男が立っているとする。一人の男が私に、こう語りかける。「君は自分が心を持っていると信じているらしいが、実は、君は心を持っていない。」。私は勿論反論する。だが、問い掛けた男は横の男に「どうだ、凄いだろう。こいつ、本当の人間みたいだろう。」と笑いながら話す。横にいる男は「本当に凄い。人間そっくりだ。」と応じる。私は懸命にあの手この手で自分は人間であり、心があることを証明しようと試みる。手を抓り「痛い」と叫んだり、「貴方達が妙なことを言うから、気分を害した」と怒ってみせたり、思い出話をして涙ぐんでみせたり、感動した映画の場面を話したり、あらゆる手段を尽くす。二人の男も取りあえずは私の相手をするが、一向に納得した風はない。私は疲れ果て、段々どうでも良くなる。そこで、二人はこう呟く。「さすがに電池切れらしい。もう帰るか。」私はそれでも食い下がる。一人の男が呆れたような顔をしながら提案する。「君の頭の中には脳はなく、ただのコンピュータであることを断層写真で証明しよう」。私は二人に連れられて病院に行きMRI検査を受ける。その写真を見て私は驚愕する。確かに私の頭の中にあるのは電子部品ばかりで脳細胞は一つもない。私は目眩に襲われながら、「これは捏造だ」、「たとえ私がロボットだとしても、心は持っている」と呻く。だが正直すっかり自信をなくしている。「私は人間ではないのか?」、「心などないのか?」。 これは現時点ではフィクションだが、技術進歩を考えると、将来はありえる話しだ。そもそも私はどうして私が心を持っていることを知るのだろう。「私は間違いなく何かを考えている。考えているのは心なのだから、心があるのは自明だ」と主張する者がいる。デカルトの議論がその類だ。だが「考えている」とはどういうことなのか、「(私が)考えている」ことをどうやれば知ることができるのか。ウィトゲンシュタインの信奉者ならば「観察に寄らない知識だ」と答えるかもしれない。だが、そんな答えは何の説明にもなっていない。それは、「証拠はないが確実だ」と言っているに過ぎないからだ。事故で脚を失った者が、存在しない脚に痛みを感じることがある。私の確信は、私に属するものについてすら、確実な証拠とはならない。 現実の私を考察しても、同じ結論が得られる。私は「私が心を持つ」ことをどうして信じているのだろうか。子どもの頃、大人たちが話すことを聞き、「心が大切だ」、「そんなことをしたら、心が痛むだろう」などという言葉の使い方を覚える。その結果、自分には「心」と呼ばれる何かがあると信じるようになる。確かに「「信じること」こそ「心」の象徴だ」と言いたくなる。しかし、なぜ、それが「心」なのか知るすべはない。ただ「心」という言葉を使い会話しているに過ぎない。私は会話の中で「心」という言葉を使い、会話の相手には心があると信じている。そして、私にも心があると(何の根拠なく)信じている。それだけしかない。 だいぶ前のことだが、二人の人造人間の少女が登場する映画があった。一人は邪悪で、同級生の少女たちをその心が最も傷つくような残虐な方法で殺し、殺した少女たちから魂を奪うことで心を持つ本物の人間になろうとする。もう一人は善良で、同級生たちが殺されたことを知り、涙を流し、殺人鬼の人造人間に怒りをぶつける。邪悪な人造人間は、涙を流す少女を嘲り、「お前は心を持っていると思いこんでいるだけで、ただの空洞、感情のないただの人造人間。」と言い放つ。善良な少女は「心がないなんて嘘よ。私は人間よ。」と激しい拒絶反応を示す。最後、邪悪な人造人間は主人公の魔女に倒され、善良な人造人間の少女は心を持つ本物の人間になるという映画なのだが、この物語でも(制作者の意図はいざ知らず)「私に心がある」ことを証明できないこと、「心がある」とはどういうことか分からないことが暗示されている。 私に心があること(これを仮に「自我問題」と呼ぶ)は証明不可能で、「人は心を持っている」という言語ゲーム(他我問題が肯定されている言語ゲーム)に参加することで、自我問題が二次的に解決されている。自我問題は他我問題により解決される。それゆえ、もし他我(他人の心)の存在が疑わしいならば、私に心があることは他人のそれ以上に疑わしいことになる。 さらに、「心」に相当する言葉が存在しない言語も考えられうる。そこでは、他人は勿論、自分についても「心」なるものについて語られることはなく、自我問題も他我問題も発生しない。それゆえ、心が語られるときには、常に、「心」という言葉を共有する共同体が存在し、そこでは、全ての者に心があることが暗黙のうちに承認されている。そして、その承認を共有することで、私も自分に心があると信じるようになる。 こうして、他我問題を重要な研究課題とする哲学は逆立ちをしていることが分かる。他我問題が解決しない限り自我の存在を保証することはできない。他我問題は自我問題に先立つ。ところが哲学は、自我問題を自明の理とするか、他我問題に先立ち自我問題を解決してから、他我問題に取り組む。 (注)但し、現存在(「私」とほぼ同じ意味だと言ってよい)が「世界=内=存在」であり、共同体内での語りを通じて「共同存在」であることを指摘したハイデガー、「私」の問題は言語ゲームの中で位置づけられる問題であることを指摘したウィトゲンシュタイン、この20世紀を代表する二人の哲学者は、他我問題が自我問題に先立つことを理解していた。 とは言え、これで問題が解消したわけではない。先の例でも分かる通り、他人の心を信じても、「私がロボットであり、本当は、心はない」ということを完全否定することはできない。それゆえ、他人の心の存在もまた疑いうることになる。それゆえ自我問題(それに先立つ他我問題)は全く無意味だとは言えない。人そっくりのロボットが普通に街を歩き人と会話するような時代が来れば、私たちは目の前にいる相手が本当に人間か、本当に心を持つのか疑問に思うことがあるだろう。そのとき、自分もまた心を持つかどうかが問われることになる。そして、ここまでくれば、「心がある(心を持つ)」とはどういうことか、実は、誰も知らないというところに、根本的な哲学的難問があることが明らかになる。そしてこの難問を解くことはおそらくできない。現代人の多くは(私もそうだが)、自然科学の対象である身体と異なる霊魂や霊能力などの存在を否定する。だが、霊魂や霊能力などを考えない限り「心」を理解することはできないようにも思える。チューリングマシンの提唱者でコンピュータサイエンスの父と崇められる天才数学者チューリングが、テレパシーのような霊能力を信じていたことも、強ち不可解なことではないのかもしれない。 了 |