井出 薫
自然にあるのは「事実」だけだが、社会には「事実」と「規範」がある。自然と違い、社会は人間自身が作り出しているのに、社会を理解することが自然以上に困難なのは両者の関係が不明確だからだ。 法は事実だろうか、それとも規範だろうか。ケルゼンは、法を規範だと考え、事実とは異なる規範として法を把握することが科学としての法学の任務だと言う。但し、その規範は道徳規範とは異なる。道徳規範は内容により自らを正当化するが、法規範は内容で自らを正当化することはできず、ただその形式により正当化される。だから、ケルゼンの法学は必然的に最初の法規範としての「根本規範」(仮想的な歴史上の最初の規範)を要請する。 しかし、法は事実と異なる純粋なる規範なのだろうか。成文化された法も、法行為も全て社会に現れる紛れもない事実の一つだ。法律は紛れもなく記録され、法行為は社会的な事実として遂行され記録に残る。法を事実として捉える視界がそこには当然のように開けてくる。ケルゼンはそれを法学の研究対象ではなく、因果的に社会現象を説明する社会学の研究対象だと主張する。しかし、法社会学と法学との差異を明らかにすることは難しい。法の正当性を探究するのが法学、社会が法を制定して人々がそれ遵守するメカニズムを探究するのが法社会学だと説明しても問題は解消されない。法を人々が遵守するという事実があって初めて、法は法規範となる。法が法規範であることで、人々は初めて法を遵守する。法においては事実と規範は一体であり、言葉の上で便宜的に分けることは出来ても、実体として分離することはできない。学問的にも、法学と法社会学の境界線を明確に定めることはできない。 経済でも事実と規範は微妙な関係にある。現代経済学は数学を駆使して経済現象を自然現象のように分析するが、経済的行為には自然現象と違い規範的な性格がある。同じ商品ならば安く買える店で買う、価格が上昇すれば購入量は減り下落すれば増える。これは一見力学的な現象のように見えるが、そうではない。そこには規範的な行動が隠されている。友人を支援するために専ら友人の会社から購入する、社会的不正をなす企業からは商品を買わない、様々な理由で人は経済学的予測とは全く反対の行動を取ることがある。それは個人レベルの取るに足らない擾乱ではなく社会全体の動きとなることがある。そして革命が起きて資本主義を崩壊させることすらある。それゆえ、事実の説明と予測を目指す数理経済学と規範的性格を有する経済政策論を明確に分けることはできない。 一般論としても、事実と規範を明確に分離することはできない。ある一つの出来事を事実として見ることもできるし、規範として見ることもできる。裁判官の判決は、上位規範に基づく(下位規範としての)法の創造であり法の執行であるという規範的行為であるが、同時に法的行為という事実でもある。商品の購入は事実だが、購入の判断は規範的な性格を帯びる。では、事実と規範の関係を明らかにするにはどうしたらよいだろうか。 ここでウィトゲンシュタインの言語ゲームを援用することができる。経済活動も法的行為も、言語ゲームとして見ることができる。言語ゲームには規則がある。規則は明確に定義されたものである必要はない。恋敵がいる恋愛はゲームの典型だが、そこには明確な規則がある訳ではない。経済活動の規則は経済が安定しているときには自然法則のように正確で人々はそれを規則と意識することはない。だから経済学は時には自然科学の一分野であるかのように論じられる。法は明確に定義された規則の典型であり、それは人々にとって強制力を有する規範として作用する。 言語ゲームを解明するには二つの立場がある。外部から言語ゲームを観察する立場と、言語ゲームの参加者として内部からゲームを見る(=ゲームを遣る)立場だ。外部からの観察者にとって、ゲームは一つの事実であり、内部から見ればゲームは規則を守る(ないしは違反する)行為となる。言語ゲームでも、法を中心とするゲームにおいては、規則は強制力を有する規範となり、それに関わる行為は規範的な行為になる。こうして事実と規範が一つの社会現象の二面性を表現していることが明らかになる。 勿論、このことを指摘しただけでは、法や経済の問題が解決できる訳ではない。寧ろ、法学、経済学や社会学の困難が露わになる。人間は自然現象に対しては社会という場(=言語ゲームの場)を確保して、その外部に立つことができ(傍観者となることができ)、客観的な自然法則を発見することが可能となる。しかしながら、社会現象は社会の中で見ることしかできない。なるほど個別のゲームに対しては外部からの観察が可能であるが、観察者は依然として社会の中にいる。それゆえ観察している事実があたかも規範のように自らの下に帰還する。人は法や経済から離れることはできない。法や経済を研究しながら人は法行為や経済行為を遂行する。つまり事実と規範は不可分で両者の区別は便宜的なものに留まる。法は規範として捉えることもできるし事実として捉えることもできるが、それを完全に理解するには両面から研究することが必要となる。さらには、規範と事実の不可分離性から、経済、法、政治、文化などの社会的な諸領域の区別もまた便宜的なものに過ぎないことが明らかになる。それゆえ、例えば経済学は政治学や法学、社会学と切り離すことができず、法学や他の学も同じ運命となる。この学問的な困難が言語ゲームの考察から必然的に帰結する。 このことは社会現象が理解不能だということを意味しているのではない。ただ、単純な事実として社会現象を捉え、自然科学な方法で社会を解明することはできないし、規範科学あるいは道徳科学として社会科学を捉えて研究を進めることもできない。それぞれの遣り方で、それなりの成果を収めることができても、社会現象の完全な理解に至ることはない。このことをよく認識して、新しい方法論の確立が求められている。 了 |