井出 薫
「雪は白い」は分析命題(意味的に真で、偽であることがありえない命題)だろうか、総合命題(偽である可能性があり、真であれば新たな知識となるような命題)だろうか。 「雪」の定義に「白いものである」ことが含まれていれば、この命題は分析命題となるし、そうでなければ総合命題だということになる。20世紀の代表的な分析哲学者の一人、クワインは、分析命題と総合命題を明確に区別することはできないと指摘したが、それでも一応、命題を二つのカテゴリーに分けることには意義がある。言語表現の性格を明らかにするのに役立つからだ。たとえば、「独身者は結婚していない」という言語表現は「独身者」の意味を知っている者には無意味で、ただ「独身者」の意味を知らない者(例えば日本語を習い始めたばかりの外国人)に「独身者」の意味を教えるときだけに使える。だから、この表現は分析命題的表現だと言ってよい。一方、「人間には46本の染色体がある」という言語表現は、たとえそのことを知っている者にとっても意味的に真な命題ではなく、偽の可能性がある命題として意味を持つ。研究の結果、人間は46本ではなく48本の染色体を持つことが判明する可能性もあるからだ。そして、このことを知らない者にとっても「独身者」という言葉の意味を知ることとは違う効果がある。この言葉を初めて聞いた者が「「46本の染色体を持つ」ことが「人間」という概念の定義の一部」と解釈することはない。 では、「雪は白い」は分析命題なのだろうか、それとも総合命題なのだろうか。それは言葉の使用の問題で、分析命題の一要素として「雪」という言葉を使うこともできれば、総合命題として使うこともできる。空模様から雪が降ると予想されるとき、黄色いものが降ってきたら、「黄色い雪が降ってきた」と言うこともできるし、「雪とは別の物が降ってきた」と言うこともできる。つまり「雪」という言葉がどのように使用されているかで、分析命題となるか総合命題となるかが変わってくる。 しかし、言葉の使用の問題で片付けたのでは、クワインの主張「分析命題と総合命題の境界は不確定だ」を裏付けるだけに終わる。それでは(正解だとしても)ちっとも面白くない。そこで、日本人は「雪」という言葉をどちらの方法で使用しているか考えてみよう。 「黄色い雪が降ってきた」と叫ぶ者がいる。それに対して「これは雪ではない。何か別のものだ」と反論する者がいる。そして、「確かにこれはただの雪ではない」という結論に至る。その後の調査の結果、雪に異物が混入したことが判明する。こういう状況が考えられる。この結果、人々は、雪は黄色いことがありえると考えるようになるだろうか。ないだろう。雪はあくまでも白で、異物が混入したことで黄色くなったと考えるはずだ。つまり私たちは日常生活で「雪は白い」を分析命題的に使用している。だから雪が黄色いことはない。 豪雪地方では雪は時には「白い悪魔」とも称される。日本では雪と白(「白いもの」)は意味的な包含関係にある。つまり「雪は白い」は、日本人にとって(意味的に真で、偽である可能性がない)分析的な真理として機能している。勿論、将来、日本人の言語使用の習慣が変わることはあり得る。環境汚染や気候変動で雪に黄色い異物がしばしば混入するようになり、人々が「雪は黄色いことが多い」と言うようになる可能性はある。そのときには「雪は白い」は分析命題ではなくなる。だが、今のところ「雪は白い」は分析的真理として私たちの思考様式と行動様式を支配している。「雪」という存在者に対する日本人の振舞いはこの事実に大きな影響を受けており、「雪のように白い」という(肯定的な意味合いを有する)慣用的な表現に象徴されるとおり、その影響は「雪」を超えて広がっている。 「雪が白い」が分析命題か総合命題かを問うこと自体には(哲学者以外には)大した意義はない。だが、こうした分析が社会の特性を理解する上で役立ち、社会学的な考察に貢献することもある。分析哲学的な考察は、大抵、素人にとっては詰らないパズルに過ぎないが、全く役立たない訳ではないことを知っておくことも無駄ではない。 了 |