☆ 哲学事始め ☆

井出 薫

 哲学の原点はどこにあるのだろう。哲学に限らず全ての学は、人間の感覚で捉えられものだけでは物事の本質を知ることはできないという観察から始める。人間の身体を目で見たり、触ったりしても、それが微小な細胞の集合体であることは分からない。顕微鏡という特殊な観察装置を使って初めてそれが分かる。惑星の運動がニュートンの重力法則に従っていることを認識するには、様々な観測装置と実験装置、さらには日常言語とは異なる数学という強力な道具が欠かせない。宇宙が137億年前に、地球が46億年前に誕生したこと、人間がバクテリアのような原核生物から長い年月を掛けて進化したことは観測装置や実験装置だけではなく、高度に抽象化された思考法を用いることで初めて認識可能となる。農業を営むためには何が必要でどのような計画を立てる必要があるか、堅固な要塞を作るには何か必要か、病気を防ぎ治療するためにはどうすればよいか、何を認識する必要があるのか、こういう現実的な課題解決には自然認識に加えて様々な記録や計画立案、合理的な意識決定などが求められる。さらに社会構造を理解することや、合理的な規範体系を生み出すこと、円滑に機能する政治体制や法を制定すること、こういう事業も、私たちの感覚や本能に頼っていただけでは実現できない。人は如何に生き、死ぬべきか、善とは何か、悪とは何か、善と正義、善と幸福は同じか、こういう問題も感情や素朴な経験だけでは解くことはできない。

 人間は様々な課題を解決し、社会の設計図を描き、それを実現し、自然に働きかけて、人間固有の生活を営むためには、感覚や直観を超えて、深い認識と合理的な実践が欠かせない。この事実から哲学は出発する。古代ギリシャにおいては哲学とはほぼあらゆる学を包含するものであり、学問一般がこういう観察から誕生したことは容易に見て取ることができる。プラトンのイデア論は今でこそ根拠のない空想的な思弁に思えるかもしれないが、感覚と素朴な直観を超えない限り、真実を把握することはできず、善い社会の実現や人生の問題の解決もまた不可能であることを象徴的に語ったものだと解釈すると、原始時代を超えて文明の域に到達した人類を象徴する思想として理解することができる。

 哲学の一領域として誕生した諸学問は、しかしながら、近代化と共に、哲学から分離していく。哲学はデカルトやカントなどの大哲学者のお陰で今でも一つの立派な学問分野として残っているが、それでも数学、物理学、化学、生物学、経済学、法学、政治学など個別科学の隆盛に押されて、その存在意義が怪しくなっている。プラトン、アリストテレス、デカルト、ヒューム、カント、ヘーゲルなどの名前を知っている者は多いが、その著作を紐解く者は少ない。この傾向は日本という非西洋社会のみならず西洋社会でも同じらしい。しかも、事実これら大哲学者の書を読まなくとも誰も何の不自由もない。哲学は(出来の悪い)文学の一分野に転落したという意見にも一理ある。

 哲学はどうして凋落したのだろうか。西洋哲学の原点において、ある種の錯覚があった。その錯覚を哲学は2千年もの間、引き摺ってきた。そのため、実験装置や観測装置、数学や合理的な討議と記録、産業の発展などの助けを借りて、いち早く錯覚から脱却した合理的な諸学問に大きく遅れを取ることになった。では、その錯覚とは何だろうか。

 ニーチェはプラトン以来の西洋形而上学を批判して「感覚は人を欺かない」と警告した。人間の目には、ある背景の下では同じ長さの棒が違う長さに見えたり、真っ直ぐな棒が曲がって見えたりする。白くないものが白く見えたりもする。ここから「感覚は真実を隠蔽する」、「感覚は人々に歪んだ世界像を与える」という誤解が生まれる。そしてこの歪んだ像を与える感覚に従う本能的な活動は低級なものであるという思想がそれに続く。ソクラテス、プラトンに始まる西洋哲学の原点において、このような錯覚論法による感覚と本能の迫害が始まる。感覚と本能は低俗なものとして貶められ、理論的な思考と感覚を排除した純粋な直観こそが真と善と美の源泉だとみなされるようになる。そして、この傾向は哲学においては現代に至るまで途絶えることなく続いている。哲学は数学や論理学に関心を示し引用する。また他の諸学問からも知恵を拝借する。それでも基本的に哲学は孤独な思索と(先哲や芸術家が残した)テクストの読解から真理を導きだそうとする。真理の不在や脱構築、脱領域化を強調するポストモダニズムの哲学思想もまた看板の色調を少し変えただけで伝統的な哲学の領域から抜け出してはいない。

 感覚や本能は進化の過程で環境に適応してきた結果であり信頼に値する。確かに不適切な効果を生むことはあるが、ほとんどの場合、それは正しい道を示す。だからこそ私たちは日々安心して暮らしていける。感覚と本能だけでは真実を知ることはできないと述べたが、そのことは感覚や本能が人を騙すとか狂わせるということを意味しない。そしてほとんどの者はそのことに少しも疑問を感じない。ところが哲学者だけは前者ではなく後者の立場に同調する。その結果、不合理な世界に迷い込む。このことは諸学問を比較すると分かる。哲学を除けば、目の前にある本やパソコンが本当に実在するのか、私が目を閉じると消えてなくなるのではないか、実験装置は本当に存在するのか、5分よりも前から地球は存在したと言うのは本当なのか、こういった問いに関わる学問はない。そもそも関わる必要がない。私たちは哲学するとき以外は、感覚と本能に従い行動することで、日々何の問題もなく暮らし、学問上の成果を挙げ、社会体制や法の制定と維持に成功している。哲学の異常と言わなくてはならない懐疑主義は明らかに不自然であり、ある種のパロディとして楽しむことはよいが、真剣に考えるべきことではない。ところがパロディを大真面目に学問的に探究しようとするのが哲学なのだ。そして、それが仇となり現代の高度文明社会において袋小路に陥りそこから脱却できなくなっている。

 現代的な意味での哲学は西洋に始まったものだとは言え、非西洋世界にも同じような様々な哲学的な思考法が見受けられる。そして、その多くは西洋哲学と同様に錯覚論法で感覚と本能を貶め、隠れ家の瞑想の中で初めて真理が訪れるという考えに傾いている。つまり哲学は感覚と本能の有益性を正当に評価しないという決定的な誤りを犯している。

 とは言え、それは文明に至った人間がある意味で必然的に犯す誤りではないだろうか。そして古今東西、その傾向は変わっていない。科学と産業が高度に発展した現代においても、依然として我々は自分の感覚を疑い本能を汚らわしいものと捉えることが少なくない。文明化された人類には、哲学的に考え、しばしばそれに基づき行動するという傾向が潜んでいるらしい。

 なぜそうなのか。これは無視して良い課題ではない。現代において、哲学はほとんど無視されている。それで何ら問題はないのだが、その一方で常に哲学的に考え行動することに魅了される者が後を絶たない。異常な正義感に端を発して多くの残虐を行う。深読みし過ぎて素直に物を見ることが出来ない。そして、不必要に人生や社会や他人を悲観的あるいは批判的に考えようとする。それは人々の争い、国家の争い、マイノリティーの差別や搾取へと繋がっている。これらの諸問題を解決することこそが現代における哲学の課題であるはずなのに、その哲学がこれらの好ましくない傾向を助長している。哲学は人間の欠陥を象徴する。

 この現実に正面から向い、解明し、克服するために必要なものは何だろう。毒を以って毒を制する。哲学が、そして哲学だけが、哲学が社会と人へ及ぼす悪しき影響を解明し克服することができる。「21世紀を展望するために新しい哲学が必要だ」などとメディアや知識人たちは語る。彼と彼女たちは哲学とは何か深淵で素晴らしい知恵であるかのように語るが、間違っている。確かに21世紀の哲学が必要なのだが、それは21世紀になっても残存する哲学を一掃するために21世紀の相応しい新しい(毒消しの効果を持つ毒としての)哲学が必要だという意味なのだ。このことを悟って初めて哲学が21世紀という時代において、意義あるものとして現れる。


(H23/2/5記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.