☆ 正義の相対性と民主制 ☆

井出 薫

 絶対的な正義はない。現代の日本では多くの者がそう考えるだろう。私的所有制度はロックや自由主義者には神聖なる権利とされるが、マルクスなど共産主義者にとっては搾取と貧困の元凶とされる。どちらも一理ある。私有制は国家権力に対抗する手段となり、自分のものだからこそ大切するというのも人間の本性だと言ってよい。成田闘争や公害事件では、行き過ぎもあったが、農民や公害被害者や支援する市民は土地の所有権や一株株主としての権利行使で権力や大企業に抵抗した。現在でも自然破壊に繋がる公共事業に対して市民が土地を購入することで抵抗することがある。私的所有権が広く認められていなければ一般市民が権力の恣意に対抗することは難しい。かつてのソ連・東欧の共産主義国家がそうだったし、現在の北朝鮮でも同じことが言える。しかし、その一方で、私的所有制度が存在する社会では、1千億円を超える大資産家や年収が10億円を超えるような高額所得者が存在する一方で、生活費もままならぬ者、医者の診察を受けるお金もない者が存在する。世界に目を向ければ飢餓に瀕している者が10億人以上存在する。この不公正の原因が専ら私的所有制度にあるとは言えないが、重要な要因の一つであることは間違いない。

 他にも、自由の権利と生活の安定とどちらがより重要か、格差はどこまで是認されるか、国家と宗教の関係はどうあるべきか、動物の権利はどこまで尊重されるべきなのか、こういう意見の一致をみることがない論争が多数存在する。時代と共に、人々の意見が変わることもごく普通にある。また多数意見が必ずしも正しいとは限らない。過去を振り返ると、当時は当然と思われていたことが現在では不適切なことだと考えられることもあるし、その逆もある。

 正義は、物理法則のように自然を研究することで発見できるようなものではない。身体的あるいは心理学的な研究でも正義が発見されることはない。必然的かつ普遍的な歴史法則が存在するとしても、それに従うことが正義に適うということにはならない。そもそもそういう法則の存在自体が甚だ怪しいし、存在したところでそれに従わないといけないということにはならない。人類が核戦争で滅亡することが歴史の必然だとしても自ら核戦争を始めるのは愚かな行為だ。

 こうして考えていくと、現実的にも、理論的にも、正義の相対性は否定しようもない。ファシズムやナチズム、スターリニズムのような独裁体制よりも民主制が優れていると大多数の日本人は信じているが、それを立証する確固たる証拠などない。実際、日本や米国の政治家はしばしば、「民主」、「人権」、「市場」を普遍的な理念だと表明するが、普遍的な理念であることを証明した者はいない。ただ日本や米国ではそれが広く支持されているという事実があるに過ぎない。

 では、民主制や人権擁護の優位性は単なる一部の者たちの神話に過ぎないのだろうか。数学のような厳密な証明を欲する限りは「その通り」と答えるしかない。しかし絶対的な正義を構想するのではなく、「よりましな政治的なシステムは何か」と問い方を変えるとき、正義の相対性という事実が寧ろ民主制の優位を強く示唆する。絶対的な正義が存在しない以上、ある集団Aの意見と別の集団Bの意見が対立したときに、正義論に訴えて意見対立の解消又は裁定をすることはできない。だとすると、AとBが広く市民の前で自らの主張が妥当であることの根拠を語り、(第3者を交えた)討議を行い、最終的に市民の判断を仰ぐという民主的な方法が最も妥当な判定に至ると期待できるだろう。勿論、市民の最終判定が間違っていたあるいは必ずしも妥当なものではなかったことが後々明らかになることはある。だがそのときは同じように民主的な手続きを経て最初の判定を見直せばよい。

 こうして判断が間違う可能性に留意しながら、意見の収斂が得られないときには多数決で決めるという民主制のルールが最も望ましい(少なくとも悪くない)ことが明らかになる。民主制においては民主制を否定する意見も含めて極めて多様な意見が認められ、自由の自説の正当性を人々の前で主張することができる。そして、ある日は少数意見でも将来多数意見となることもある。このような多様性と柔軟性を持つ制度は現時点では他には見当たらない。

 正義の相対性は、一見すると、民主制の優位を放棄することに繋がると思えるかもしれないが、実際は寧ろ逆だ。もし唯一無二の絶対的な正義が存在するのであれば、民主制は不要になる。例えば共産主義が唯一無二の絶対的な正義で、誰でもがその正しさを認識することができるのならば、共産党の一党独裁でも問題はない。寧ろ、絶対的な正義と異なる思想を抱く集団の存在は社会にとって好ましくない。それは似非科学を科学教育から排除するべきだと主張するのと同じで非難すべきことではなくなる。ところが正義は自然法則とは異なり普遍的なものではなく相対的なものに過ぎない。正義とはその都度構成し、不都合があれば修正していくような存在なのだ。だとすれば、民主制こそが正義の相対性という現実に適っている。正義の相対性により、民主制はそれ自体が普遍的な正義(あるいは理念)だと主張することはできない。だが同時に民主制が絶対的な正義であることを主張することができないという事実が、民主制を支持することになる。


(H23/1/6記)


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