井出 薫
私たちは自然法則という言葉をごく普通に使う。だが自然法則とはそもそも何だろう。 現代では、多くの人々が自然の諸現象は必然的な法則に従って生起すると信じている。物理法則がその典型で、「物理学的必然に従って」と言えば逆らうことができない現実を表現することになる。 つまり「自然法則」という概念には必然性と人間の意識からの独立(又は客観性)が含意されている。社会法則なるものは蓋然的、主観的であるが、自然法則は必然的で客観的だとしばしば言われるが、こういうことを意味している。 従って、自然法則を理解するには、必然性と客観性という概念を解明することが欠かせないことになる。普通、私たちはどちらの概念も余り意識することなく使っている。必然的とは例外なくというくらいの意味で、客観的とは誰にとっても同じというくらいの意味で使われる。 しかしよく考えるとどちらも必ずしも明快な考えではない。「例外がない」ことなど滅多になく、私たちはいつでも例外に悩まされている。物理学では、理論が正しいとすれば、法則には例外が無いことが前提とされるが、このことが証明されたことはないし、これからも証明されることはない。自然界には無限の出来事が生起し、そのすべてで同じ法則が成立することを確かめる術はない。実験室や観測機器で確認されたデータは宇宙全体の無限の事象と比較すれば無限小にも満たない。つまり、人が手にする証拠だけでは、物理法則が(例外無しという意味で)必然的である確率は限りなくゼロに近い。つまり自然法則に例外が無いというのは私たちの憶測に過ぎない。ただ、これまで明確に自然法則が成立しない事象に出会ったことがないというだけだ。カントによると、自然法則が必然的なのは、人間理性が元々必然的な法則により把握できる範囲でしか自然を認識できないからだということになる。つまり人間の認識を超えた世界があるのだが、そこは人智の及ばない領域なので認識できない。逆に言えば認識できるのはただ例外の無い=必然的な法則が成立する領域だけであるから、自然法則は必然的になる。カントの考えには様々な難点があるが、それでも、自然法則の必然性を人間の認識形式から独立して証明することができないことを明らかにする。自然法則の必然性は確証された真実ではなく、私たちの信念に過ぎない。 客観的とは誰にとっても同じ(間主観的)という意味で、あるいは、人間の意識から独立しているという意味で使用される。真の客観性とは後者の意味であると多くの物理学者や伝統的なマルクス主義者は主張するが、先に示した通り無限の事象を人間が全て確かめることが出来ない以上、客観性とは間主観性を超えることはない。ただ間主観性という概念には意見が一致しているだけで真実かどうか分からないという否定的な意味合いがあるため、紛れもない真実であること強調するために「人間の意識から独立に」という強い主張がしばしば採用される。だが、自然法則は、自然の真の姿を写し取っているかもしれないが、無限の事象を全て確認することができない以上、それを証明することはできない。しかも人間特有の認識形式で自然法則が記述されていることを忘れてはならない。アインシュタインの重力方程式は本やコンピュータの中にのみ存在し宇宙のどこを観察しても方程式など書いていない。ガリレオは自然という書物は数学という言葉で書かれていると記したが、自然は書物ではない。要するに自然法則とは人間特有の記述様式に基づくものに過ぎない。それゆえ強い意味での客観性は決して証明することはできない。 必然と客観はここでは密接に関連している。必然とは人の思惑ではどうにもできないことを意味し、それゆえ客観を含意するとみなすことができる。では客観を「意識から独立した」という意味ではなく間主観的な合意と解釈したらどうなるだろう。間主観的な合意は一時的なものに過ぎない可能性が否定できない。事実、意見の対立は物理学のような明快な学問領域でも珍しいことではなく時代と共に意見の一致を見たり逆に意見対立が生じたりする。それゆえ間主観的という意味に客観性を後退させても、自然法則の客観性を保証することはできない。 必然と客観、通常、この二つは自然法則の欠くことのできない性質だと想定されている。しかし、どちらも証明は不可能であることを認めない訳にはいかない。認めたら観念論者になるという訳でもない。たとえ唯物論者でも実在論者でも、証明ができないことを認めるのに吝かではあるまい。 しかし、こうして私たちの常識に反して、自然法則に必然性も客観性も付与することができないとしたら、自然法則とはどのような位置にあるものなのだろうか。蓋然的なものに過ぎないとされる社会法則と同じ身分に属するものに過ぎないのだろうか。 しかししばしば予測が外れ時代と共に著しく変化していく社会法則を考えると、自然法則と社会法則との違いを認めない訳にはいかない。自然法則に近い性格を持つと言われる経済学でも、ある時代に成立した学問的モデルが時代と共に陳腐化することは避けられない。社会学などでは人々の価値観や生活習慣によってその(妥当性に関する)評価が違ってくる。一方、自然法則ではこういうことはない。日本で成立する自然法則は他国でも成立する。だから日本製品が世界で広く使用され、世界の製品が日本で使用されている。明らかに自然科学と社会科学には違いがある。 だからこそ必然と客観という概念が自然科学の一般的な表現としての自然法則に付与されることになる。つまり、私たちの多くは、自然法則と社会法則に解消できない差異があると感じている。世界的に著名なマンキューの経済学教科書には、経済学者も物理学者や生物学者と同じ方法を用い同じように法則を見つけ出すと書いてあるが、この本の評判の良さにも拘わらず、多くの読者はこの同一化に違和感を抱くだろう。事実マンキューの主張には無理がある。 経済学を含めて社会科学の諸理論や諸法則は、人間の(主としての言語を使う活動が織りなす)構成物と考える必要がある。それに対して、自然法則も人が構成するものだとしても、正しく事象を説明したり過去を再現したり未来を予測したりしようとするとき、構成の自由度は著しく制限される。だが、逆に言えば、この制約の強さこそ自然法則の正当性を裏付ける。 こうして、自然法則を必然性と客観性として表現することには、それを文字通りに捉えるのであれば無理がある。しかし、社会法則の蓋然性と、絶え間なく変貌する人間社会の在りようを考えるとき、自然法則を特徴づけるうえで必然性と客観性という概念を外す訳にはいかない。それゆえ自然法則を「必然的で客観的」と語ることは、それが便宜的な意味であることを弁える限りは間違いではない。 しかしながら、自然と社会、自然法則と社会法則の違いが曖昧であることを忘れてはならない。両者の差異をより明確にするためには、モデル・道具論の本格的な展開が必要となるが、それは別の機会に譲ることにする。 了 (補足) 自然法則と社会法則(規則)との差異を明確に示すのは、「介入不可能性」であろう。自然法則は利用することはできるが、法則自体を変えることはできない。社会法則例えば市場の法則は介入して変えることができる。それは政府の介入に限らず人々が革命のため、あるいは民族感情から敢えて経済学的には不合理な行動を取り社会を変化させることができることに示される。この点をより詳細に議論する必要がある。 |