☆ ロールズ「正義論」の現代的意義 ☆

井出 薫

 ロールズ「正義論」の新訳が出版された。20世紀後半最大の政治哲学書と称される同書だが、最初の翻訳の評判が芳しくなく、世評の高さの割には日本では読者は少ない。原書で読みとおす語学力のない筆者には旧訳に対する否定的な評価が正しいのか否かは判断できない。ただ旧訳が読みにくく、ロールズの議論がストレートに頭に入ってこないことは事実だ。だから新訳が出て、この偉大な著作が日本で広く読者を獲得することになれば、その意義は極めて大きい。だが、ここでは、とにかく、簡単にロールズの思想を(極めて偏ったものになるが)レヴューしてみたい。

 ロールズの有名な議論は無知のベールという架空の思考実験で、そこから正義に適った好ましい社会体制が構想される。

 生まれ出る前の魂たちが集いどのような社会が好ましいか協議する。魂たちは自分たちがどのような境遇に生まれおちるか知らない。奴隷になるかもしれないし奴隷を支配する王になるかもしれない。さて、どのような境遇に生まれるか分からないとしたらどのような体制が好ましいと考えるか。

 自由を例にあげよう。奴隷制では奴隷を自由に支配する王になる可能性もあるが自由を奪われた奴隷になる可能性もある。奴隷の苦しみと王の喜びを比較したとき、明らかに奴隷の苦しみの方が大きい。奴隷を支配しても王が幸福になれる保証はない。だから奴隷制社会は明らかに好ましくない。ここから、魂たちは、全ての者が公平に自由の権利が与えられた社会に合意する。これは奴隷制ではなく民主制、誰もが自由かつ平等に政治に関与できるような社会が支持されることを意味する。

 さて政治的な自由の平等だけでは問題は片付かない。経済的な問題がある。誰もが自由に行動する権利を与えられているとしても、それだけでは人は自由ではない。自由の権利を充実させるには経済的な土台が欠かせないからだ。では経済的な体制としてはどのようなものが好ましいか。私有財産制が無制限に容認され完全自由競争で富める者は益々豊かになり、貧しい者は益々貧しくなるような社会がよいか。誰もがどういう境遇に生まれるか分からないのだから、無制限の私的所有と自由競争が支持される社会では、巨万の富を持つ両親の下に生まれ、かつノーベル賞とオリンピックで金メダルを取ることができるような才能に恵まれた者に生まれることもありえる代わりに、貧しい家庭に生まれ病弱でこれと言った才能もない者に生まれる可能性もある。これは好ましいだろうか。奴隷と王の事例と同じように考えることが出来る。貧しい者の苦しみは、富を独占して世間から賞賛されている者の喜びよりも遥かに大きい。富と権力、名声だけでは人は幸福で良い人生を送る保証は得られない。巨万の富と権力と名誉を手にしながら、嫉妬、友や家族の裏切り、陰謀などで苦しめられることがある。一方、貧しく病弱で周囲から救いの手が差し伸べられない者は常に不幸になる。それゆえ、無知のベールに覆われた魂たちは、ここでも、経済的に公平な社会に合意する。恵まれた者が自分の富と才能でより多くの富や権力、名声を手に入れることに先立ち、最も恵まれない者たちに手を差し伸べ、そのいう者たちでも苦痛のない平穏で楽しい人生を過ごすことができるようになってから、恵まれた者は自分の才能と富を利用して、富、名声、権力を求めることが許される。このロールズの議論は、必ずしもかつての欧州の福祉国家を支持するものとは言えないが、富の再配分を強力に推し進め、最も恵まれない者へ最も手厚い保護を与えるという福祉国家的な政策を支持していることは間違いない。

 こうして無知のベールという思考実験を通じて、ロールズは、正義の二つの原理、自由の権利の公平な配分、恵まれない者を最優先することによる平等主義に近い富の再配分(マキシミン原則)を提唱する。このロールズの正義論は現代的な人権思想と福祉国家路線を理論的に正当化し、また哲学的には単純な幸福量最大化を目指す功利主義を批判して、公正としての正義を社会構築の礎とするカント的な義務倫理と社会契約説を復活させた。その衝撃は計り知れないものがあり、多くの批判や論争を巻き起こし、ロールズを支持するしないに拘わらず「正義論」が20世紀後半で最も大きな影響力を持った政治哲学思想の一つであることを認めない者はいない。

 だが勿論ロールズの思想が最善だと断定することはできない。ロールズのマキシミン原則は結局人々の自由を拘束することになる、恵まれない者を何よりも優先するという思想からは市民生活、自由な経済活動への政府の過剰な関与を引き起こす。自由主義者たちはこうロールズを批判する。この批判は一面的であり、社会の安定のためにも恵まれない者への支援が欠かせないこと、それが正義という理念に繋がることを正当に評価していない。だが自由主義者の反論が一面の真理であることも事実だ。福祉国家は財政破綻や、行政の支援を当てにして働こうとしない者の出現などモラルハザードを抱え込むことになる。そして良くも悪くも、その反動として、サッチャーやレーガンの保守主義と自由主義、ハイエク流の思想と政策が世界に広がることになった。

 アマルティア・センはロールズを評価しながらも、ロールズが単純な量的な富の分配に偏り、各人が自分の能力を開発する機会が均等に与えられていないことこそが問題であることを十分理解していないと批判する。貧しいという静的な状態よりも、貧しいが故に貧しさを克服する機会が与えられない、つまり貧しさが再生産されるシステムが問題だとセンは指摘する。中国の故事にも「空腹の者がいたら魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えてあげなさい」という言葉がある。センは正にこの故事のとおり、ロールズが専ら貧しい者に魚を与えることで問題を解決しようとしていると批判する。大切なことは、恵まれない者に魚を与えることではなく、魚の釣り方を学ぶ機会を与え自分の能力を自主的に開発していく動機と手段を与えることなのだ。貧しい社会に生まれ育ったセンは、貧しい者がそこから抜け出す機会を与えられていないこと、そのために貧困が貧困を再生産していることを熟知していた。お恵みを与えるように貧者に富を再分配することよりも、自己開発の機会の公平がより重要となる。センの批判は鋭い。ロールズの思想が現実的に孕む危険性は、政府権力の肥大化とモラルハザードの発生にある。センの視点を取り入れることで初めてロールズ「正義論」に記される二つの正義の原理が現実社会において意義あるものとなる。

 一部のマルクス主義者はロールズが暗黙のうちに資本主義体制を唯一無二の社会体制だと考えていると批判する。この批判は確かに当たっている面もある。ただ現実にはソ連・東欧の共産主義が崩壊し、中国が資本主義的な経済政策に移行し資本主義国以上に貧富の格差が拡大している現状では、この批判は説得力が薄い。政治哲学は、プラトン以来の西洋形而上学のような普遍かつ唯一無二の真理を求めるものではない。現実社会の諸問題を如何に解決するか、解決の糸口はどこにあるのか、どこから問題に迫るべきなのか、そもそも何が問題なのかというような問いに対して、現実を出発点として、その処方箋あるいは処方箋を書くための手掛かりを探ることにその任務がある。永遠の相の下で観ることは政治哲学の目標ではない。それゆえ共産主義を目指す現実的で有効な方法が存在せず、しかも共産主義が目指す社会体制に疑念が深まっている現在、ロールズが資本主義を前提にしているという批判が当たっていたとしても、それを以ってロールズを拒絶することはできない。しかも、たとえ共産主義が実現してもロールズ的な問題は残存する。共産主義に基づき人は生まれた環境を完全に平等にすることはできる。だがそれでも各人の間には資質や健康状態に違いがあり、資本主義的私有の廃止だけでは課題は解決しない。これはマルクス自身が自覚していたことだ。とは言え、マルクス主義者たちの批判にも一理ある。ロールズの議論では魂たちの討議とその結果に対して一定のバイアスが掛かっていることは否定できない。

 更に原理的にも問題がある。無知のベールに覆われた魂たちが下す結論がロールズの提唱する二つの原理に収斂するという理論的な根拠はない。奴隷になるリスクを背負ってでも王になる夢に賭けるという魂があってもおかしくはない。実際のところロールズの思考実験の結論はすでにロールズ自身の信念により決定されていたのであり、無知のベールは論理的な議論ではなく、人々を説得するためのレトリックに過ぎない。ロールズやその支持者はロールズの帰結を、社会の多数を占める平均的な人々の普通の考え方や価値観と整合すると論じることで、理論の正当化を図るが、必ずしも読者の多数がロールズを支持するとは限らない。このことを考慮に入れるとロールズ派の主張は説得力を欠く。

 センの批判、また最近話題のサンデルなどの(共同体の伝統的な慣習や思想を重視する)コミュニタリアニズムからの批判、マルクス主義者の批判、原理的な難点、さらには福祉国家の限界の露呈という現実が示す通り、ロールズの正義論は完全な処方箋を与えるものではない。ロールズを読んだだけでは現代社会の諸問題への解決策を見いだすことはできない。

 だが、それでも、ロールズの政治哲学には極めて大きな意義がある。それは現代人の多くが暗黙のうちに功利主義的な発想(最大多数の最大幸福)に支配されているからだ。現代の功利主義は個別の事案に対する単純な価値計算に基づく論理(たとえば、罪のない2名の人間を殺すことで5名の人間を救うことができるのであれば罪なき2名を殺してもよいというような単純計算に基づく論理)ではなく、ルール功利主義的な大局的な論理(どのようなルールを採用することが社会にとって有益かを考慮する)に基づいている。だが、それでも計算可能な幸福量あるいは効用の存在を暗黙のうちに仮定し、その量の最大化こそが望ましい選択だという仮説が多くの人々の心を支配している。たとえば現代経済学は暗黙のうちに功利主義を前提していると言えるだろう。

 功利主義が誤りだとは言えない。政治的な論争に決着が付かないときには多数決が唯一の妥当な解決策になる。功利主義的な発想が有効である、あるいは、他の適当な手続きが見つからないということはよくある。それゆえ完全に功利主義を排除することはできないし、現実的にも有益なことではない。だが、幸福量や効用は量的に計算できるものではない。またその最大化が常に正しいとは言えない。貧しい人々が暮らす集落に、飢えた子どもが紛れ込んできた時、人々が全員一致で子どもを無視することを決めたとしたら、たとえ全体の効用が子どもに食事を与えるよりも大きいとしても、そしてそれが全員一致の結論だとしても、私たちの正義観はそれが正しい選択だったと認めることはできない。功利主義は決して普遍の原理ではなく、しばしば役に立つ選択のために指針に過ぎないと考えるべきなのだ。そしてロールズの「正義論」は、現代人の暗黙のドグマである功利主義を相対化し、功利主義とは別の道の可能性を示唆する。そして現代という時代は、功利主義の有効性を承認しながら、同時に功利主義を超える道を模索することを避けられない。ただ幸福を追求するだけでは、貧困の撲滅や環境問題の解決、戦争やテロ、偏狭なナショナリズムの克服、持続可能な社会の構築はできない。現代的な諸課題を解決するためには功利主義を超える原理が必要となる。その手掛かりを与えてくれる著作はロールズのそれに限られる訳ではない。しかし今でもそういう著作の中で、ロールズ「正義論」が最良の一つであることに変わりはない。ロールズの新訳を機会にロールズが見直されることを期待したい。
(注)但しロールズが功利主義を克服しているかというと疑問がある。無知のベールに覆われた魂たちの合意内容は、結局のところ功利主義的な計算に基づくものではないかという批判が成立する。寧ろ、ロールズの意義は、量的計算ではなく、合理的な利己心に基づく討議を通じて適切な社会体制を構想するという手続きにあると見るべきだろう。


(H22/11/20記)


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