井出 薫
「市場」とは何かと問われると案外答えるのが難しい。市場とは交換する場であることは間違いないが、ただ交換するだけでは市場はできない。原始時代に分業が成立して以来、共同体内部では交換が普通に行われるようになった。薫が編んだ衣服と恵一が釣ってきた魚を交換する。しかしここには市場はない。 市場とは匿名性をその本質とする。同じ共同体に属する薫と恵一の交換は計画的なものであり市場の本質である匿名性が存在しない。匿名性が成立することで初めて市場は市場となる。 商品の製造業者を購入者は知っている。私のパソコンは東芝製だ。しかし東芝とは自然人である「私」のような実体ではない。東芝は形式的で空疎な法人格で、それ自体は市場という場の部分系をなす空疎な存在に過ぎない。取次店も同じだ。確かに私のパソコンは東芝製だと記されているが、私は誰からパソコンを購入したか知らない。パソコンを購入するとユーザ登録が推奨されており、東芝という組織は私という自然人と接触しようとする。しかし、その意思は「私の意思」のような明確な実体性を有しない。 市場の匿名性は空疎な記号として機能する貨幣が存在することで成立する。東洋では貨幣は、厭勝銭、つまり、まじないの道具として始まったという説がある。まじないとは祈り、占い、そして何よりも清めを意味する。それは他者や過去との絆を断つという効果を有する。貨幣はその始まりから他者や過去との決別という意味を持ち、それが交換過程に介在することで、匿名性を本質とする市場の成立を可能にする。 現代経済学、あるいは現代経済学をブルジョア経済学と批判するマルクス経済学も、市場の本質である匿名性を十分に咀嚼していない。最適資源配分という楽観論は、市場の匿名性の故に端から成り立つはずがなく、人々は不況とバブルに翻弄される運命にある。その代わり匿名性のお陰で、私たちは他者や過去に束縛されることなく振舞うことが出来るようになり、数多の失敗と悲惨に見舞われながらも、市場の下で産業が飛躍的に発展拡大し生活は豊かになる。アダム・スミスは人間を交換する動物と捉え、それを発展の原動力と考える。スミスの考えは今でも多くの経済学者や思想家に支持されている。しかし交換だけでは経済の発展と社会の拡大は実現しない。貨幣という強力な道具を媒介とする匿名性が発展を可能となる。そして匿名性は差異を解体して世界を均一化し、普遍的な科学の発展と普及を促す。それがまた産業の拡大に繋がる。 市場の匿名性から、情報は本質的にコストを要するものとなる。マルクスは、商品の運輸費は商品価値を形成するが、単なる売買に掛かる費用=流通費は商品価値を形成せず生産の空費だと論じている。しかしこれは間違いで、マルクスは市場の匿名性とそこから必然的に生じる情報のコストを看過している。現代経済学は情報の非対称性を強調するが、非対称性は市場の欠陥又は限界と捉えられており、それが市場の本質であることが理解されていない。 その結果、マルクス経済学も、現代経済学も、情報産業や金融ビジネスを適切に理解することができず、人々は金融危機に苛まれ情報に翻弄されている。 市場にとって匿名性は本質的な要件であり、ベールを剥ぎ取れば真の姿が見えるというものではない。企業が実体のない関係体に過ぎないことが示唆するように、ベールに隠されたものはまたベールであり、実体に辿りつくことはない。確かに企業で働く個々の労働者や経営者は一個の人間であり皮相的には実体として存在している。だが企業とは静止した実体ではなく活動として存在し、実体としての個人はそこには存在しない。その証拠に経営者も労働者も自由に取り換えがきく。だから私たちは市場交換の背後に実体を見ることはない。見ることが出来るものは商品と貨幣しかない。 市場は人間社会を豊かにし、個人の自由の基盤を形成する強力な機構であることに相違はない。しかし、その合理的な相貌の下には人間が現実に直面する最も不気味な暗黒が潜んでいることを忘れる訳にはいかない。 了
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